輝ける青春 La Meglio Gioventù
2005年7月9日より岩波ホールで公開
日本語公式サイト
http://www.kagayakeru.net/ (かなりネタバレなので注意、ちなみに予告篇もネタバレなのが気になった)
監督:マルコ・トゥーリオ・ジョルダーナMarco Tullio Giordana
製作: アンジェロ・バルバガッロ、ドナテッラ・ボッティ
製作総指揮:アレッサンドロ・カロッシ
脚本:サンドロ・ペトラリア Sandro Petraglia、ステファノ・ルッリ Stefano
「あらすじ]
ローマに生まれたカラーティ家のニコラ(
ルイジ・ロカーショ)とマッテオ(アレッシオ・ボーニ)兄弟を描く大河ドラマ。
イタリアらしい家族の絆を中心にしながら、1966年代から2003年までのイタリア近現代史を振り返る意欲的な作品である。
物語は66年、ローマの大学でニコラは医学を、マッテオは文学を学んでいるところから始まる。夏休み、精神病院でボランティアをしたマッテオは、入院している美しい少女ジョルジアと知り合う。ニコラとともに、・女を病院から連れ出して故郷に返そうとするが、途中で警官にみつかって頓挫。ニコラはそのまま旅行にでかけ、マッテオは大学を中退して警官になる道を選択する。

この機を境に、兄弟ふたりは別々の道を歩むことになる。
74年、学生運動が盛んな時期は、学生と警官という正反対の立場で再会。

その後、ニコラは結婚し娘をもうけるが、妻が赤い旅団の活動にのめりこみ、すれ違いが続く。
一方、マッテオは美しい女性ミレッラ(
マヤ・サンサ)と出会い恋におちるが、なぜか深い関係になるのを避けてしまう。
マッテオの孤独は深く、誰とも打ち解けようとしない・・・。
[レビュー]
2004年イタリア映画祭でみて大感激。しかしその6時間以上の長さゆえ日本公開は難しいだろうと思っていたら、岩波ホールさん(配給:テアトル東京)のおかげで実現しました。
イタリア映画祭では、主演の
ルイジ・ロカーショさんにサイン&握手をしてもらった。
座らないで、立ってサインしてくれたんだよ。
6時間見た後、スクリーンの中にうつっていたニコラが目の前にいるなんて、イタリア人すらそんな贅沢な鑑賞した人は少ないんじゃないかな。と心から誇らしい。
さて、本作は6時間6分の大作で1部と2部の2部構成。
最初はイタリアの国営放送RAIがTVシリーズとして制作したが、その後出来上がりがよいので映画になった。
ベルトルッチの「1900年」、ベルイマンの「ファニーとアレクサンデル」そして、現在3部作のうちの1作目が公開されたテオ・アンゲロプロスの「エレニの旅」長編映画の傑作はいくつかあるが、これらと比べると、本作は正直、重厚さには欠けている。
最初TVドラマとしてスタートしたので、キャラクター設定がユニークでわかりやすいが、その分、背景の歴史への切り口が甘い。
過去の名作は、時代という大きなうねりに、たった一人の人間がどうあがいても振り回されるという、ひとりの人間の存在の小ささ、無力さを執拗に描いていたし、作品が長ければ長いほどそれが浮き彫りになった。
しかし、本作では主人公たちは、イタリアの重大事件にふりまわされるというよりも、ドラマ上、むりやり関連づけさせられているだけで悩んでいることは、非常に個人的な問題である。内面の葛藤こそが・らの重大事なのだ。
だから、歴史は二の次にして、ニコラとマッテオの心の旅に、観客は自らを重ね合わせればよいのだ。
ニコラとマッテオはの兄弟は容姿も性格もすべてが正反対。ニコラは人懐っこい笑顔をたやさず、人生を楽しめる明るい性格。一方でマッテオは「ギリシャの英雄アキレスのような」青い瞳のハンサムな青年だが、正直すぎるのか、妥協せず、周囲と協調できない性格だ。
監督は、「全く対照的なキャラクターをもつ2人の人間を描いたのではなく、人間は誰でもこの2人の性格の両方をもち、ふたりはその片方が極端な形であらわれてしまったという設定である」と語っている。人はあるときは、ニコラであり、あるときはマッテオにもなる。
このふたりは、まるでふたつでひとりのような強い結びつきをもっている。(最後のそのとおりになる)
この二人の30年以上におよぶ歳月に、60年代から現代にいたるイタリア史が重ねられる。
特に重要と思われるのが、精神病院のエピソード。
既に触れたが、マッテオは精神病院で学生ボランティアとして働いたとき、ジョルジアという美少女と出会う。
マッテオはジョルジアを故郷へ戻してあげようと病院から連れ出し旅に出る。が、途中で警察に見つかり・女は連れ戻され、責任を感じたマッテオは旅を中断、そのまま軍隊へ入隊してしまう。ジョルジアはマッテオに恋心を抱いてしまうのだが、医学を専攻しているのは
ニコラであり、性格も優しいニコラを好きになってもよかったと思う。もちろんマッテオはハンサムだが、・の感受性の鋭さ、ぶっきらぼうな中にあるやさしさにジョルジアは共感したのだろう。マッテオに恋したジョルジアは、後半に再び現れ、重要なシーンで登場する。
ニコラが精神科医としての仕事に打ち込む姿は、おそらくイタリアのバザーリア医師をモデルにしている。イタリアはなんと精神病院を廃止した国なのである。
参考サイト
http://www.seirokyo.com/archive/world/trieste/021124kyoto.html 「バザーリア医師がイタリア北東部の港町、トリエステの公立サンジョバンニ精神病院の院長になり、本格的な改革を始めたのは1971年。当時は入院患者が1182人もおり、90%が強制入院だった。バザーリア医師は78年には「バザーリア法」を成立させた。これにより、精神病院の新設、新規入院が禁止たされた。トリエステ県は最初に病院を閉鎖して、四つの地域ごとに精神保健センターを作りました。県の人口は二十五万人で精神医療ユーザーは約三千人。各センターは約三十人のスタッフで二十四時間の診療・相談体制をとり、急な入院用のベッドも八床ずつある。地域に責任を持つので来所を待つだけでなく、医療を放置された人を積極的に探し、刑務所へも医療提供に出向くという。」
「輝ける青春」のオリジナルタイトルでイタリアサイトを検索すると、なんとDVDのパッケージは、ニコラとマッテオでなく、ジョルジアの顔であった。イタリAでは、この映画の重要さが、ジョルジアのエピソードにあると見られていることを示すものではないか>
イタリアでのDVDパッケージはこれ

(2006年2月5日、追加情報)
panterinoさんのブログにてバザーリア法に関する記事がUPされました。大変参考になると思うので、TBもしていただいていますが、ぜひ参照ください)
【参考ブログ】イタリアに好奇心 「バザーリア法とその見直し」
http://senese.cocolog-nifty.com/koukishin/2006/01/post_46bd.html(以上)
以下、ネタバレなので、注意してください。
ニコラはいつも笑顔で人当たりもよく、性格もいいのはたしかなのだが、実は共感する心においては、かけているところがあったのではないか。マッテオは黙っていても、母親や、ジョルジアから愛される。どこかしらマッテオに嫉妬する気持ちもあっただろう。また、ニコラの近くにいる人がなぜか不幸を感じていることにも注意する必要がある。
マッテオだけでなく、妻のジュリアもなぜかニコラから離れていく。マッテオが死んだ後、「自分は、・を止められたのに、とめなかった」というセリフがある。注意してみていると気がつくのだが、ニコラはマッテオやジュリアが、自分から離れていくとき(演出ではいつもドアのこちら側と向こう側で対峙する)強くひきとめない。もしかして・らはどこかでニコラに助けてというシグナルを送っていたと思うのだが、ニコラは驚くほどあっさり・らをドアの向こう側に行かせてしまう。
ニコラは意外と冷たいのだな、と思ったのは2度目にみたときだ。
妻が赤い旅団の活動にのめり込んでいくのを、もっと早い段階で止めることができたかもしれないのに、見てみぬふりをしているようにみえる。娘を連れて散歩に出てしまうのは、かかわりをさけているようだ。
最初に、精神病院からジョルジアを連れ出したのもマッテオのほうだった。ニコラは友達と旅行に出かけようとして浮かれ気分でいて、マッテオにひきずりこまれた感じ。
ジュリアとマッテオ、一連の身内の不幸、そしてそれを招いてしまった自責の念が、ニコラににその後精神病院の改革にとりくむ原動力になると考えるべきだ。
ネタバレ以上
この映画を見る人に注意してもらいたいのが、ドアだ。
この映画に登場するいくつものドア。
それは物理的な扉というより、精神的な心の扉を意味すると思う。
ニコラは後半やっと自分からドアを開ける。ジョルジアが隔離されている、地下の倉庫のドアをぶちやぶるのだ。あのシーンががこの映画における、節目である。ニコラが新しい一歩を踏み出す瞬間なのである。
ニコラは監禁されていたジョルジアを連れ出す。
その後、元気になったジョルジアだが、病院から外へ出る勇気がない。
しかし、ジョルジアはマッテオの写真をみて、この写真をとった人に会いたいと強く願う。・女のその強い思いが、いくつものドアを開けて外に出て行くシーンで演出される。・女の幾重にも閉じられた心の扉があく様を、いつくものドアで表わした感動的なシーンなので是非注意してみてほしい。
そのほか、赤い旅団やシチリアマフィアなど、どうしてカラーティ家にこれだけイタリアの重要な事件が次々おこるかなというくらいこじつけもかなりあるのだが、まあ、日本人からみると、イタリア史をざっと俯瞰できるので勉強にもなるだろう。
ラストはこれまた、かなりネオリアリズモなイタリア映画に反してアメリカ的な演出ではある。だが、初めの大学テストの教授との面談で「きみは共感指数を上げろ」と言われていましたよね。人の心をどれだけ理解できる人間になるか。ニコラは自分の負の部分、マッテオの存在を自分の中に受け入れることによって、人間的に成熟する。同時に、マッテオによって出会った大切な女性の存在を受け入れることができるのである。
このラストに素直に感動しましょう。ふたつの明暗のキャラクターが最後にひとつになったのだ。
(追記)またまたネタバレ
ここまで書いたところで、Invitation7月号で川口敦子氏によるレビューを読む
驚いたことにマッテオの苦悩の理由は「性のアイデンティティーにある」とのこと。それとわかるように描かれているのだそうで、私は全く気がつきませんでした。たしかに、車に連れ込んだ「a prostitute」のキャラクターは強烈だったが・・・・。70年代のイタリアではまだタブーだったのだろうか。性のアイデンティティーだとすると、私のこの映画に対する興味はかなり半減してしまう。なぜなら、それ以外のもっと深い闇、物事を肯定できない生真面目さ、早熟の天才ほど世を儚むガラスのような心をもったキャラクターとして、私なりにマッテオを美化していたのだが、・の苦悩がただゲイであることだと片付けられるのは、納得がいかないが。
第2部が始まったとたん、クイーンの「OneWho Wants to Live Forever」が流れたのはそういうわけ?
うーん、でもそれならミレッラが可哀想過ぎるだろう。。
採点:★★★★