奇跡の丘(1964年)

[あらすじ]
新約聖書の一番最初に置かれている「マタイによる福音書」の映画化。
日本語タイトルは「奇跡の丘」だが、オリジナルタイトルは聖書そのまま「マタイによる福音書」である。
大工ヨゼフの婚約者マリアが聖霊によって懐妊し(処女懐胎)する場面から始まり、ゴルゴダの丘で磔刑にされて、死後復活するまでを描く。

同性愛者で共産主義者であるパゾリーニが聖書を映画化するということで、当初は各方面から非難を浴びたそうだが、結果的には周囲を黙らせる素晴らしい作品ができあがった。
第25回ヴェネツィア国際映画祭:審査員特別賞、国際カトリック事務局映画賞、チネフォルム賞、国際映画批評家連盟賞などを受賞したことでも、この映画がいかに高く評価されたかが伺える。

【解説】
パゾリーニはコミュニストであったにもかかわらずなぜにこの映画を作ったのか。
彼はこう語っている。
[パゾリーニの言葉]
私はアッシジのプロ・チヴィターテ・クリスティアーナに泊めてもらっていた。その後も何度か訪ねているが、そこは私のような人間にもいつも扉を開いている。1962年10月2日だった。アッシジはロレート・ジョヴァンニ(ヨハネ)23世の来訪を待っていた。ヨハネ23世はヴァティカンを出て、宗教会議のさだめによって“貧しくつつましき者”と名付けられた聖フランチェスコの墓に祈るためにやってきた初めての法王だった。私はベッドに横になり、町の音に耳を澄ました。町は人々の声や足音で沸き立っており、好奇心と幸福感で熱くなっていた。大聖堂に向かう道にはたくさんの足音が聞こえた。ありとあらゆる鐘が鳴り始めていた。私は優しい農民法王のことを思っていた。彼は難しいと当時は思われた希望へと人々の心を開き、またレジーナ・コエリの扉も彼に開かせたのだ。そこで法王は《自分の目で》泥棒や殺人者たちを見たのである。厚い慈悲の心以外は何もまとわずに。
私も一瞬起き上がってそば近くで彼にまみえたいと思った。しかし、鐘が私の頭の上でも鳴り響いているあいだ、彼に会いたいという望みは突然鎮まった。自分がたくさんの人にとって苛立たしいはみ出し者になるのではないか、安易な宣伝をしようとしていると非難されるのではないかと思ったからだ。私は自分のことを“放蕩息子”とは思わなかったが、多くの人にとってはそうした振る舞いは趣味の悪いシナリオのように映るだろう。
本能的に手をナイトテーブルの上にのばして私は福音書の本を手にした。それはすべての部屋に置いてあるものだった。私は最初のところから読み始めた。つまり4つの福音書の最初、マタイ伝から。最初のページから最後まで、今でもよく覚えているのだが、祝典で沸き立つ町の喧噪から喜んで身を守るように私は読み耽った。ついに本を置くと、私は最初のざわめきから、鐘が巡礼法王の出発を告げるまで、自分がこの厳しいと同時に優しい、かくもヘブライ的で激しやすいテキスト、それこそがマタイ伝だーーを全て読んでしまったことに気づいた。
福音書を映画化しようという考えは何度も浮かんだが、この映画はまさにそこで、その日の、その時間に生まれたのである。

パゾリーニは「信者の中に入り込まずには神の子イエスを描くことが出来ず、無神論者である自分自身と信者との、2つの物語の間をきわめて難しい均衡をこの作品で実現せねばならなかった」と書いている。
これでなるほどと思い当たるのが、この映画の極めて客観的なイエスの描き方だ。俳優は素人であり、現代的な感情を込めた演技をしていない。
本作のすばらしさはその音楽によるところが大きい。聖書に書かれている事実は、淡々と語られていく。

ゴルゴタの丘にのぼる場面。このシーンを「パッション」と比べるといかに違うかわかります。
熱心なクリスチャンのメル・ギブソンが作った「パッション」と比較するとあらゆる面で対照的だ。パゾリーニ版のこの淡々とした進行が、彼の客観的な視点、信者でないという事実を如実に物語っているように思える。
信仰というのは理屈でないので、「パッション」ではメル・ギブソンの思い入れの深さが、時に執拗なまでに残酷な描写に行き着いたり、観ている私からするとうんざりしてしまったりするのだが、「奇跡の丘」には見事にそれがない。やはりパゾリーニは信仰心からイエスを語っているとは思えない。非常に冷めているなあと感じる。
ではこの淡々とした語り口が、なぜ数あるキリスト教映画の中でももっとも感動的であるといわれる作品といわれるようになったのか。
まず聖書を読んでみるとわかることだが、聖書が淡々としているのだ。現代的なストーリー展開に慣れている私たちにとっては、入りにくい文章である。
なにより、いつどこでだれとだれがどうした、という現代なら当たり前の歴史記述が聖書にはない。唐突に物語りははじまり、ある記述はとても長かったり、ある記述はあっさりしていたり、時系列であったりなかったり、そのときにその場に誰がいたりというのが定かでない。そしてそのとき「と思った」という登場人物たちの思いは見事に省かれている。だからそれは文脈から汲み取るしかないので、そこにイエスを物語にするときの醍醐味があるといえるし、難しいところであるのだ。そしてこれが様々な聖書解釈、異端信仰を生む。
だいたい、どうしてユダがイエスを裏切ったのか、その理由は一切書いていないのが、私からすると本当にミステリアスだ。
では、キリスト教に興味がない私が、もし聖書のイエスの生涯を映画にするとしたら、どうするだろう?
そう考えると、この映画も非常にすっきり理解できる。おそらく、パゾリーニが聖書を読んで最も共感できた箇所が、この映画でもっとも感動的な場面になっているのだと思う。だから「イエスの奇跡」といわれる処女受胎や湖の上を歩いたことや、病の治療、復活は淡々と描かれる。削ってはいないという点もミソだと思う。あくまでそれは事実として描いている。
この、ことさら奇跡を大げさに映像にしていないことが、信者でない多くの人がこの映画に対して拒否反応を示さなかった理由だと思う。
そして、コミュニストらしい解釈というか、お金持ちや権威ある階層に対しては戦いを挑むイエスが描かれる。
過ぎ越しの祭りのときに、イエルサレムに入城し、両替人の台や、鳩を売る者の腰かけをくつがえし、天使のような子どもたちが宮に入り、イエスを祝福する。その子どもたちが、ロケ地周辺から集められて演技させられてますっていう感じが非常にほほえましく、子どものたちの純粋さに溢れている感動的な、私の一番好きな場面。
「神の国はこのようなものたちである」と、そのかわいい子たちをいとおしく、優しい表情で見つめる人間としてのイエス。
こういったキリスト教の教えの根幹にあたる小さきものたちへの「愛」のシーンの普遍性こそが、この映画の素晴らしいところだと思う。
これこそキリスト教の教えがどうこうよりも、信者でないパゾリーニの心をも揺さぶった聖書の一場面であったろうし、同じく信者でない私が見ても感動する場面なのだ。
聖書に懐疑的な人間が、どうしても信じられない奇蹟は淡々と(鞭打ちもなければ、磔で苦しむさまも出てこない)、現代人でも共感できるエピソードはしっかり描く、このバランスが優れているのが、本作の素晴らしいところだ。
また、キリスト教の信仰では、「自らの罪を認める」というのが重要だが、この映画からはガチガチの罪悪感が感じられない。象徴的な場面としては、イエスがムチ打ちと磔で苦しむ場面で最もそれが強く表される。が、映画にこのシーンはない。人類の罪を背負ってイエスは磔刑にされた、というイエスの受難は、ぽっかり抜けているのが興味深い。

年老いたマリアを演じるのはパゾリーニの最愛の母スザンナ。
クリスマスはイエスの誕生日なので、本日UPしてみました。