2011年06月02日

愛の勝利を



昨年のイタリア映画祭で上映されたんですよね、しかもベロッキオが来日したんでしたっけ?
その際にベロッキオはこの作品についてどう語っていたのでしょうか

この映画は、ムッソリーニという人物のカリスマを知ることができる貴重な1本といえるのではないでしょうか・

どちらかというと、ヒトラーやナチスのおぞましい影に隠れて、無能のレッテルを貼られがちで特に日本人には印象が薄いムッソリーニでしたが、彼の演説をこれだけしっかり見たのは私は初めてですし、前半の俳優が演じているときの目力といい、ヒトラーとは全く違うセックスアピールの持ち主であることが強調されているのは興味深いです

精神病院で「絶倫だったの?」という直球質問がすべてを物語っていますね


はげちゃってもいい、彼の男性的魅力にイタリアの老若男女がメロメロになり、やけどして捨てられた、というメタファーも含んでいるのかと思いました。

でも、これまで私もたくさんイタリア映画を見てきて、「度を超した女の愛情の強さ、深さ」

がすべての根底にあり、そのアモーレの強さの裏返しの(そういう女に育てられた)男のセックスアピールであり、マザコンであり、それが文化の豊かさであり、業の深さでもあるような

そんな部分を、イーダという女性の狂気じみた愛情が体現しているようで、

いつしか息子への愛の強さゆえの、ラストの展開(それが結局息子のためにならなかったというオチも含め)の、その余韻を今見終わって感じているところです


この映画は、非常に低予算ですよね。

映画の中の映画という表現で、夢の中の夢をみるような遠近感を出しているのは、
予算がないゆえの苦肉の策ではないかと思いましたが、

ベロッキオ先生の手にかかれば、それすらも

歴史すらも人間の記憶の数だけ存在するという、思考の広がりに昇華されていたともいえるし、なによりもそこにアモーレがあれば、時間すらも超越して現代の私たちにダイレクトにうったえる力をもつという

巨匠だからできる力技をみせていただけたことで私は満足したいと思います。



はて、ベロッキオ先生の映画をすべて見ているわけではないですが、『夜よ、こんにちは』との類似点、檻からの開放=幻想 であること、現実には幻想であっても、それを可能にする奇跡があるのなら、それは母性であるという(と私は感じた)結末は、ベロッキオ先生の母胎回帰なのでしょうか。


 



posted by マヤ at 11:31| Comment(0) | TrackBack(6) | マルコ・ベロッキオ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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