2007年04月04日

『クォ・ヴァデス、ベイビー?』Quo vadis, baby?

『クォ・ヴァデス・ベイビー』

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イタリアのDVDパッケージのデザインって本当にお洒落です。
ただちに捻挫しそうなハイヒール。こんな靴を履くのって女の特権かな。

【あらすじ】
『僕は怖くない』のガブリエル・サルヴァトーレス監督作。
主人公は40代の女刑事。姉が自殺した過去をひきづって生きている。ある殺人事件の調査と同時進行しながら、今ままで背を向けていた家族との関係に向き合うサスペンスタッチのドラマ。


【感想】
デジタルカメラでの撮影で、色調に凝りに凝っているらしいのですが、その辺私は気にならず(笑)、40過ぎのくたびれた女性(以降、アネキと呼ばせていただきまっす)が主人公って面白いじゃん、ってなノリでみたら楽しめたかな。
なんせ酒もタバコも人並み以上で、お肌なんてボロボロだし、目のクマもひどいし、猫と二人暮らしなんてまあ・・・。しかも40歳過ぎたら生活が顔に出るとはこのことだよなー、フムフム、などとまだどーでもいいことを考えながら鑑賞。

気になったことを書きます。

チラシにもプログラムにも公式サイトにも使われている女性の写真、まるでこの人が映画の主人公のようですが、見た方はわかると思いますが、全然違います。

これが公式サイトの写真。
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この人は主人公のお姉さん。映画にはほとんど登場しない女性です。最後のほうに登場します。美人だけどね。

こちらがでずっぱりのアネキ。
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きっと主人公の女性だとビジュアル的に「見ようかな」という関心を呼び起こさないからこの画像を使ったのだとは思いますが、それにしてもこれはないだろー。

ま、日本公開されないと思うから書いちゃうけど、タバコプカプカアネキが、美人のおねーさんや父親とのトラウマを克服していく話なのですが、私からするともうちょっと若いうちに克服すればいいのに、40歳くらいになって遅くないか(笑)

でも、まあだからこそ新鮮な映画だったな、ともいえます。

うん、人間いくつになっても目覚められるよね、うんうん。
こういう年齢の女性が主人公の映画って日本では「ない!」ので、それも新鮮でした。

アネキが「女」を取り戻していくと、なぜか今までご無沙汰だった男性関係も急に復活して、デートの予定がダブルブッキング!なんてことになります。
そう、人間ヒマなときって誰からも声がかかならいのに、楽しい用事がダブったりするんだよねー、ウンウン。

この映画、サスペンスタッチなのですが、こういう映画はイタリアには少ないのだそうです。ちょっとモッサリした展開も、イタリア人がこういう映画を作りなれていないせいだとか。
そしてこの女刑事の物語はTVシリーズとして放映されるそうです。(2006年5月時点のお話)


アネキを演じたアンジェラ・バラルディ(Angela Baraldi)さんは、ミュージシャンらしいです。ためしに名前で検索してみたら、映画とは全然違うとっても素敵な笑顔の女性の写真がたくさん出てきました。やっぱり人間、笑顔が大事!
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映画だけ観た人には別人に見えることでしょう


公式サイト(イタリア語)
http://www.privati.tim.it/aree/2/14559/tim/0,,14559,00.html
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2007年03月29日

哀しみの日々 I giorni dell'abbandono

書いていたのにUPするのを忘れていた昨年のイタリア映画祭上映作品『哀しみの日々』の感想を今頃・・・


『哀しみの日々』 I giorni dell'abbandono

夫が突然家を出た。可愛いさかりの小学生の子ども2人を置いて。残された妻の打ちひしがれた日々を真正面から描いた作品。

オリジナルタイトルは、ズバリ『捨てられた日々』。
あれ、abbandonoは io abbandono で、「私は見捨てる」
という意味になります。
でも、後ろの単語からdellをはさんで前の単語を修飾するから
「見捨てられた」と訳しました。英語だとedを付けて受身にするけど、イタリア語ではこれでいいのかー。
私はイタリア語でまだ受動態を学習してないので、ふと思いました。

んなことはおいといて、

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この映画をみながら、『失楽園』を思い出した。あの映画をみたとき、私は主人公2人よりも残された妻が不憫だったんだよなー。
そう、その妻の側を映画にしたのがこれだと言えましょうか。
不倫というのは、不倫の当事者より、その周囲の人のほうがつらくないですか?だって当事者は燃え上がっているわけだから。

とはいえ、この映画をみながら、日本イタリアの文化の違いをいろいろ感じました。

まず旦那側。
妻に対してどうこうよりも、父親としてあまりに子どもに対して無責任じゃないのー!
妻とは話し合おうとしますが、子どもたちのことを考えてどう・・という台詞がひとつもなかったのにはちょっと驚きました。
が、これはこの映画に限らず、実は『パンとチューリップ』という映画をみたときにも感じたカルチャーギャップなのです。あの映画でもラスト主人公はあっさり「家族のために自分の気持ちを抑える」ことよりも、自分の愛を選択するのだった。
『私のことを覚えていて』という映画でもそうだった。イタリア人にとって何より大事なのは子どもへのアモーレより、男女のアモーレなのでしょうか。だれか教えてください。

これと関連するのですけれど、この映画では子どもたちが父親が家を出て行ったことを母親よりもあっさりと受け入れているようにみえます。もちろんショックでしょう。もちろん「わたしは結婚なんてしない」という子どもの台詞もあります。しかし、自分たちを捨てた父親にうらみの言葉をはくような場面はなかった。自分が子どもならそういう感情が芽生えるような気がするけど、意外と親の恋愛にも寛容な気がしたのは私だけ?

そう、マルゲリータ・ブイ演じる母親は、母親であることより、女であることが上にきていることに驚いたのです。
だから、映画も女として捨てられたことの熟女のダメージを直接、真正面から描いていてなかなか日本では作られない映画として面白いともいえるのですが。

しかも、可愛い盛りの子どもを置いて若い女に旦那が走るなんて、男の格が低すぎませんか?まあ、男のほうも、中年にさしかかって揺れ動いてたようですけど(そういえば失楽園もそういう年齢だった)、だからってねえ。こういう男は日本では「ひどい男」として扱われそうですけど、イタリアでは愛を選んだ男として受け入れられるわけですか?
男性の描き方は深みがなかったと感じたのは私だけですか?

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ほーら、こんな若い女とデキて、家族捨てるんだよー最低男!


それから、傷心のマダムのそばにあんなに都合よく独り身のオーケストラ指揮者がいるっていう設定もちょっとリアリティなかったですね。
しかも現代音楽なんですけど、これがわけわかんなくて(笑)
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熱く演奏中


あともうひとつのカルチャーギャップ。
このオーケストラの指揮者がピザを買ってくる場面がありました。
そのピザがデカッ。1m×1mくらいの巨大ピッツァ。
見ただけで胸焼けしました。
落ち込んでいるときに食べたくないもの
デカイピッツァだ。
なのに、この人たち食ってるよ!
しかも、落ち込んでる女性を元気付けるのがこんなデッカイピザかよっ!
わたしはおかゆでじゅうぶんでつ。


そのほかに気になったところ。
家が広くてインテリアもシックでセンスの良さを感じました。深みのあるオレンジ(柿色みたいな)のクッション、あのカバーほしい!クリーム色のソファーにあのクッションを並べたいなーと、目がとまりました。

しかし、こういう映画を作って見に行く”大人の層”というのがイタリアにはしっかり存在するってことかなあ。
日本では絶対無理だろうな。


余談ですが、塩野七生氏がこの作品をイチオシだったのは、やはりご自身の体験からでしょうか、その点についてはちょっとこれ以上コメントできませんが。・。


公式サイト
http://www.medusa.it/igiornidellabbandono/
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2006年08月28日

『私が望む人生』La vita che vorrei

『私が望む人生』La vita che vorrei  2004年/125分
監督:ジュゼッペ・ピッチョーニ(Giuseppe Piccioni)

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【あらすじ】
 19世紀の恋愛物語で共演するステファノ(ルイジ・ロカーショ)とラウラ(サンドラ・チェッカレッリ)が、実生活でも恋におちる。物語は劇中劇と俳優の実人生を行ったり来たりする凝った構成で、大人の恋愛がしっとり描かれる。ピッチョーニ監督、ルイジ・ロカーショ、サンドラ・チェッカレッリは『僕の瞳の光』について2度目のコラボレーションとなった。


【解説(感想】
 この映画をみて『北の国から』の共演がきっかけで結婚した吉岡くんと内田さんを思い出した私。離婚の報道の際、倉本聡さんが「現実と演じる役の区別がつかなくなくなってしまったかなあ、今までそういう役者カップルを自分は見てきた。二人は違うと思っていたんだが」とコメントされていましたっけね。

たしかに役者さんというのは、限られた時間の中で、他人の人生を生きるという不思議な仕事をしている人たちかもしれません。
しかし、この映画はそんな「役者の性」を描いている映画ではありません。
ピッチョーニはそこにもっと深い解釈を加えています。
俳優だけじゃない、私たち普通の人間も人生において演技をしているのだ、と。

たとえば美しい女性をすべて口説くことができないように(監督が座談会で実際に言った言葉です。これ聞いたときは、監督の「望む人生」って要するにそれかよ!って思わずずっこけそうになりましたが)、私たちはあらゆる局面ですべて自分の感情に正直に生きているわけではないと。(そりゃそーだ)

そういうことは、恋愛に限ったことではないとは思いますが、あくまで「男女の愛」にこだわり、このような緻密な構成で、大人の恋愛映画を作ってみせるなんて、さすがピッチョーニ監督ですね。こういう映画、ニッポンにはないですよねー。
というよりも、日本は高校生向けにしか映画つくらないから、こういう企画があったとしても流れてしまうんじゃないかな。
イタリアではこのような映画を観るのはどういう世代の人たちなのだろう?

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ピッチョーニの映画はいつも俳優があまりしゃべらない(その分、監督がおしゃべりなのに驚いた!)ので、秘めた思いというのが伝わってきて、日本人の波長、感性に合う映画だと思います。前作の『僕の瞳の光』は私の大好きな映画です。

『私が望む人生』は、ふたりがオーディションでであってから恋に落ちるまではとてもロマンチックなんだけど、その後は思うように進展しません。一目ぼれはいいけど、それから関係を続けるためには、人間として深く知り合わなければいけない。そうなると当然相手の欠点も目についてきてしまう。ラウラは女優として、男性関係も華やかだった?ことがほのめかされ、ステファノのほうは仕事にも恋愛にも何も疲れ果てているのか、何も興味を見出せず、人と深く交わることを拒否する難しい人です。ただ、ふたりがどうしてそうなったのかの背景があまり描かれないのが消化不良だったかなあ。
監督は、劇中劇と現実が複雑に交錯する緻密な展開にばかり気をとられてしまったのではないかと思いました。知的なんだけど、策に溺れたような、そんな印象をもちました。

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そういう意味で前作『僕の瞳の光』のほうが、離婚して娘と暮らしながら不倫する女性の不安な心の葛藤がとってもよく描けていたと思う。この作品の場合、娘の存在が大きかった。娘が母親の不安を感じてけなげに振舞う様子が、母親が悩むシーンをそのまま描くよりもっと、母親の葛藤を表していた。娘が物語に深みを与えていたと思います。

『私が望む人生』では、チェッカレッリとロカーショのキャスティングに無理があったかなあと。ふたりとも本来の持ち味とは全然違う人物を演じていたと思います。ふたりとも演技は上手だけど、フィットしてなかったと思います。ロカーショなんて、彼の持ち味と対極にある人物だから違和感ありましたね。

クラシックな衣装に身を包み、社会的なしがらみにがんじがらめになって悲恋に終わる19世紀の恋愛物語のほうが、自由恋愛の現代よりも、より深く相手を思い、たくさん涙を流しつつも、強く愛することができたのかなあ。また、歯の浮くような愛を語る台詞も劇中で演じていると口から自然と出てくるのに、現実に戻るととたんに伝えられなかったり、すれ違ってしまうという皮肉、そんなところは、見ていて胸が痛くなるところでした。

(ネタバレ)ラウラがステファノの子どもを産んだラスト、これはハッピーエンドか?
最初ハッピーエンドだと思ったけれども、私だったら、一度あんなに相手のすごく冷たい側面をみてしまったらそうそう水に流せないのではないかなと思ってしまいました。
あの後、ふたりは復活するのだろうか。ハッピーエンドとは思いませんでしたよ。
ま、よりを戻すとしたら、それは男性次第でしょうね。水に流せるかは女性の度量次第か。

最後に、個人的な見所としては、ルイジがドラマか映画の仕事で刑事を演じているシーンです。倉庫で犯人を追うという設定で銃をかまえたりするんですが、なんだか「太陽に吠えろ」みたいで、笑っちゃいました。ここで喜んでいたのは私だけでしょうね。スミマセン。

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個人的にチェッカレッリは金髪よりブルネットのほうが素敵だと思います。


この作品について

舞台挨拶でのピッチョーニのコメント
「俳優は危ない人たちです。俳優はすばらしい人たちだと思う。演技するときに自分たちの中の何かを注入している。俳優は、彼らの実人生のほかに、演じているときも彼らの実人生であると思う。鬘をつけ、コスチュームをつけているということもだ。
ロカーショが演じている俳優は、現実の人生をもっていない、だから映画のタイトルが、私がもっていない=望む人生とつけた。」


ピッチョーニとサンドラ・チェッカレッリが座談会で語った内容(抜粋)

ピッチョー二:私の映画の特徴は、『僕の瞳の光』、『もうひとつの世界』でもそうですが、登場人物に思い入れを込めて、どんな人物がどういう行動をとるかを探っている。劇の役柄と自分自身はどこか共通点があるはずです。そういう意味では『ノーマンズランド』という映画に似ているところがあると思っています。真実というのは実は人工的なもののほうに隠されていると思うわけです。ラウラはレオノーラの19世紀の台詞の中で、本当に自分自身が言いたいことを代弁して語っている。ステファノも同じく、19世紀の言葉の中に自分自身の愛を告白する勇気を入れ込んでいるという複雑な演技を入れ込んでいる。実人生ではいえないことを、映画の劇中でいえるのだと。それを表しているのです。
私の人生もそうだ。あらゆる人々は思ったこと、感じたことをそのまま出して生きているのではなく、なんらかの演技をみんなが大なり小なりやっていると思う。たとえば、隣にキレイな人がいても、キレイだねと口にできないにしても、人生を誠実に生きたいと思っているんだけれども、みんなが何かしら演技をして生きているというは真実だと思う。

サンドラ:私が知っている限り、ロカーショは(彼が演じている)ステファノとは似ても似つかない。ステファノは陰気で機嫌が悪くて、ルイジは舞台も積極的にやっていて明らかに違う。一方、ラウラと私には似ているところもある。辿ってきた道がとても似ています。ラウラも私も、切望して女優になったわけではないという経歴が似ています。また、実際、私も女優になったはいいが、ではこれからどうすればいいのか、自分の方向性が全く見えないときがありました。でも、続けているうちに、女優という仕事に対する驚きがたくさんあって、そのうちにこの仕事にどっぷりつかるようになったのです。そういう意味では共通点がありました。
本作は非常に複雑な内容です。一人の男と女が出会った人生の一時期を描いている。女優としてのラウラは明るくて情熱的な女性で、映画で演じるレオノーラはとても暗い女性。そして男と女が出会って恋が生まれる、ステファノはいつも機嫌が悪くて仕事がルーティーン化しており、自分の意思をもっていない。劇中はレオノーラが死んで絶望するが、実人生は子どもが生まれて明るいきざしがみえるというコントラストが描かれています。


『私の望む人生』
★撮影風景
http://www.reflections.it/film/L/lavitachevorrei/gallery.htm

★予告編(動画)
http://www.kataweb.it/cinema/pop_multimedia.jsp?tc=F&idc=278456&idm=278828

★参考までに、劇中劇が出てくる映画
『フランス軍中尉の女』『アララトの聖母』『恋に落ちたシェイクスピア』
『バッドエデュケーション』『Wの悲劇』・・・
posted by マヤ at 21:50| Comment(4) | TrackBack(1) | イタリア映画祭2006 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月09日

『聖なる心』(Cuore Sacro)

聖なる心(Cuore Sacro)(2004、117分)

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私の2006年イタリア映画祭のベストはこの映画でした。

【あらすじ】
不動産会社の女社長イレーネが、ひとりの少女との出会いをきっかけに、名声も財産もすべてを捨てて自分探しの旅に出る話。

座談会で『私の望む人生』監督ジュゼッペ・ピッチョーニが、『ヨーロッパ1951』(ロベルト・ロッセリーニが監督し、妻のイングリッド・バーグマンが主演)の影響を受けているのでは?と主演のヴァレリアに聞いていた。ヴァレリアは、参考にしてはいるとは思うけど、私は違う話だと思うと答えていました。

また、上映後の座談会で聖フランチェスコの人生そのままでは?という質問もあって、なるほどそのとおりだなと思ったのだが、それもヴァレリアは否定していた。
「これは一人の女性の心の旅の物語だ」と。

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確かに、あまり宗教的な意味ばかりを追求すると、この作品を素直に見れなくなるような気がする。あまり先入観をもたずにこの作品を観ることをおすすめしたい。そして観客は、自分の思いを、登場人物たちに重ねていくのではないかと思う。女性の観客だったら、あるときはヴァレリアの視点になり、またあるときは、少女の気持ちになり、そして時にはヴァレリアを諌める伯母にもなるだろう。

「人はどういうときに幸せでないと感じるのか」「では幸せな状態とはどういう状態か?」「その反対に幸せでない状態とは?」「満たされない心を取り戻すにはどうすべきなのか」「そしてなにか行動をおこしたとして、それが果たして満たされることがあるのかどうか」「人は自分を救えるのか」「人は他人を救うことができるのか」・・・
この一人の女性の心の旅は考えさせてくれる。

バーグマンの『ヨーロッパ1951』では、最愛の息子を亡くしたことが心の救済を求めるきっかけになるのですが、この映画の場合、イレーネと母親との関係に秘密があります。彼女の母親は自殺をしており、彼女をそれを受け入れていない。心に空いた穴に強引にフタをして強く生きていたはずが、少女との出会いによって自分自身と対話していくのです。
ラストは、彼女が少女にひかれた理由というのが、実は母親にそっくりだったというオチ?があるのですが、そういうことなんですよね・・・。
それか、彼女の母親が少女の姿になって、娘に心の平穏を取り戻させるために表れたとも解釈できますかね。

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この手の自分探しの物語というのが私にとってなぜ興味深いかというと、結局人を救うことは、自分自身に満たされていない何かを、他人を救うことによって埋めようとしているだけで、究極の目的が自分を救うためではないのか、という問いです。

実は、これについての私の答えはまだ見つかっていないのですけどね。

つまり、人を救うことと自分を救うこと、どちらを優先すべきか。
いや、どちらを優先するのかと考えること自体がそもそも間違っているかもしれない。

はっきりしていることは、自分が満たされない心で人を救ってもそれは自己満足でしかない、ということでしょうか。自分勝手かもしれない。相手に見返りを期待してしまうかもしれないし。
ですから、やはり自分をまずどうにかするべきだと思うのです。
この映画は必死にそれを探す女性の話だと。
そうやって見れば、ひとつの答えはでるかもしれない。

この映画のラストは、観る人がみたらこれが答えかと思うかもしれないし、わからないままの人もいるかもしれないし、この映画を見た人が、おのおの考えればいいことです。

こういう映画、私は好きですね。

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またこの映画のもうひとつの魅力は、映画の中に出てくる異邦人たちの描き方が抜群にうまい。ということです。フェルザン・オズベテクは、自身がトルコからの移民であり、イタリアの中で異邦人ということ(本人はそういう位置づけを好まないだろうが)もあり、というか、主人公よりもその周辺の人々のほうが魅力的なのだ。これは本作に限らず、彼の作品全ての特徴ではないか。
これをみると、『13歳の夏に僕は生まれた』の移民たちの描かれ方とは決定的に違うことはわかるはずです。
見終わった後、出ずっぱりの主人公より、脇役のふとした表情や行動のほうを私は思い出しました。主人公の人生以外のいくつもの人生がこの映画にはあります。
この点は、ハリウッド映画の中でのアン・リー作品と共通すると私は思う。
ただ、アン・リーに比べて、国際映画祭での評価が低いのは、主演女優に美人を使いすぎてリアリティに欠ける側面があるせいか・・・ハリウッド映画ではなく、イタリアでしか映画を撮影していないためメジャーでないせいなのか。
この映画、本当に素晴らしい作品なので是非日本公開してほしいと思います。
私はDVDを購入して再度見たいと思っています。

ちなみに、泥棒の娘役は、昨年イタリア映画祭で上映された『ママは負けない』で、母親とふたりで暮らすけなげな少女を演じたDugay Comenciniが出演。少し大人になりましたね。ぷっくりとした唇といい、太い眉といい、個性的な顔をしていますね。

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彼女がDugay Comenciniちゃんです。

関連サイト:
『聖なる心』Cuore Sacro オフィシャルサイト(イタリア語):http://www.cuoresacro.com/

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『聖なる心』Cuore Sacro (2004、117分)

監督&脚本:Ferzan OZPETEK
出演:Barbora Bobulova(イレーネ)
Andrea Di Stefano(ジャンカルロ), Lisa Gastoni(エレオノーラ), Massimo Poggio(カラス神父)、Erica Blanc(マリア・クララ), Camille Dugay Comencini (ベニー)
撮影: Gianfilippo Corticelli
音楽: Andrea Guerra


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2006年07月21日

見つめる女 la spettatrice

そろそろ、イタリア映画祭の作品を振り返っていきましょう(遅いよ!)

見つめる女 la spettatrice (2004)

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あらすじ
トリノに住む26歳のヴァレリアは、あるとき通訳の仕事で出会った医師マッシモに一目惚れをしてしまう。そして仕事も捨てて放り投げてマッシモを追ってローマに住む。そこで彼の恋人フラヴィアと親しくなり、マッシモにも近づいてゆくのだが・・・・。

全編ポーランド出身の巨匠キシェロフスキのテイスト溢れる恋愛映画。
チェコ出身のヴァルヴォラ・ボブローヴァを起用したことにも、パオロ・フランキ監督なりのキシェロフスキへのオマージュを表われのように思います。

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この映画の主人公はまあストーカーみたいだといわれればそれまでなんですけど、(もう少し不美人が演じてもよかったかもしれない、これは、イタリア映画すべてに共通する傾向といえなくもない。みなさん水準以上に美人なので、役柄にリアリティがない、と、美人でない私などは思えてしまうのですよ、が感情移入しにくいといいましょうか)
ただ、この映画の主人公をたとえばヴィヨークにしてしまった場合、本当にただの怖いストーカー話になるので美人がやらなければいけなかったですね、本作の場合は。
そういえば、キシェロフスキ映画のヒロインもみんな美しかったっけ。
この映画のヴァルヴォラ・ボブローヴァはトリコロール赤の愛のイレーヌ・ジャコブ(この女優さん最近何してるんでしょう?)を彷彿とさせますね。
ストーリーは、「愛に関する短いフィルム」により近いらしいです。

プログラムを読んでもパオロ・フランキ監督は一風変わった人という感じ。カメラ目線じゃないし、物事をはすからとらえる視点の持ち主みたい。それが本作の登場人物たちの素直になれないところに如実に反映されている。若いんだけど、なんとも哀しいお話を撮る人ですね。

この映画で、私が一番腑に落ちなかったのは、失礼なんですけど、こんなにハンサムで素敵なお医者さまのマッシモがどうして未亡人のマダム(それもお医者さんよりかなり年上に見えて、並んだところも釣り合ってない。まあ大学教授で、知的な女性ではあるけれどもね)と付き合うの?どうやってもヴァルヴォラのほうがキュートで魅力的なのになあ、日本の男ならこういう関係ありえないだろうな、と思えたことです。

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こちらが未亡人マダムでございます


逆に私が一番ドキっとしたのは、主人公のとったラストの行動。
あんなに好きだったはずのマッシモから愛の告白を受けたヴァレリアのとる行動、映画を見ながら、「こうきたら、こうするしかないだろー」と思っていたそのままだったので、非常に納得がいったというか「やられたーー」と思ったのです。「痛い」シーンだったんだけれども。私も、ヴァレリア予備軍なのかいなあ。あーあー。

この監督、男なのにどうしてこういうシーンが演出できるんだ?ずるいよー。

つい先日『下妻物語』という深キョンと土屋アンナが共演している映画をみました。
その話の中で深キョンが「人間は不幸なままでいるほうが安心なのです、幸せになるほうが勇気がいるのです」というセリフがあり、ちとドキッとしたわけですが、その瞬間に全然共通点もなんにもないはずの、この『見つめる女』と『下妻物語』の2本の映画が、なぜか私の中でつながってしまったわけでした。

人を傷つけて幸せになるくらいなら、自分が不幸なほうを選ぶ

今、ビビビと来た方、この映画を見ることをおすすめします。


私の採点:★★★1/2★ (★3.5!高得点)




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2006年06月12日

今更ですがイタリア映画祭2006私的ランキング

えーーーえーーー、
W杯が始まって映画どころの騒ぎではないわけですけれども・・・
(これから更新が停滞してしまったら、管理人はきっとTVの前で絶叫していて、映画どころではないのだと思ってください)

今年はなんといっても、「恋愛マニュアル」でした。番外No.1!

通常ランキング
1位:聖なる心・・・ダントツ首位!(この作品と恋愛マニュアルを同列で語れません)
2位:見つめる女
実はここから
3位:13歳の夏に僕は生まれた
4位:マリオの生きる道
5位:私が望む人生
6位:心の中の獣
ここまでが
順位をつけるのが難しい。ほぼ並び状態。おそらく書くたびに気分で順位が変わりそうです。実は見たばかりのときは冗長に感じて理解しにくかった「マリオの生きる道」が、その後ある本を読んだことで、背景がよくわかり、とてもよい作品だったんだ、と思えてきたり。「私が望む人生」も導入部分の、2人が恋に落ちる演出なんて最高に素敵だったし。「心の中の獣」も、シリアスなのにとぼけた感じが所々挟まれているのもよかった。
7位:二度目の結婚
8位:母なる自然(コメディだそうだが、一体どこが笑うところなのかさっぱりわからんかった。が、しかし、ガソリンスタンドで働く男子があんなにイケメンならナポリに行ったら即、ガソリンスタンドに行こうと決心した。)
9位: 瞳を見ればわかる(スミマン、ほとんど寝てて覚えてない)


今年は全体的に見やすい作品が揃った反面、社会派の硬派な映画、重厚な作品は少なかった。唯一公開が決まっている『13歳の夏に僕は生まれた』が、一番硬派な内容でしたね。日本では、意外と社会派作品のほうが一般公開されるという不思議な傾向があるのですね。『恋愛マニュアル』より『夜よ、こんにちは』や『家の鍵』が公開される日本。
大ヒットは望めないけれども、難しい映画を受け入れる「知的で手堅い観客」というのが日本に一定数存在するということでしょうか。すごいわー、日本人って難しい映画好きなんですねー。
配給が決まるかというのは、需要と供給と買い付け金額のバランスだとは思いますので、配給会社の方々にもお礼を言わなくてはいけません。

また、10作品通じて女性のほうが魅力的な映画が多かったですね。その点、イケメン好きの私には何か物足りなさを感じる(苦笑)ラインナップといえなくもなかったです。
しかも、女性といっても若い女性ではなく、マダムが魅力的な映画が多いというのは、興味深かったです。
『見つめる女』のブリジッテ・カリヨン(この方はフランス人?)、『心の中の獣』のステファニア・ロッカやアンジェラ・フィノッキアーロ、『瞳を見ればわかる』のステファニア・サンドレッリ、『私の望む人生』のサンドラ・チェッカレッリも本当に知的で素敵な大人の女性だったし。『クォ・ヴァデス・ベイビー』の女探偵の迫力ぶりは、セクシーでグラマーなイタリア女優のイメージをある意味破ってくれた。もちろん、『悲しみの人生』のマルゲリータ・ブイも忘れてはいけません。

若手でいうと、ジョヴァンナ・メッツォジョルノとバルボラ・ボブローヴァはふたりとも超美人なのでおいといて、私としては『恋愛マニュアル』で大人っぽくなったけど、なんとなく素朴な雰囲気もある(言い換えればグラマーでないともいう)キュートなジャスミン・トリンカは今後も楽しみな女優さんですねー。

で、男子部門は・・・・。
こちらの部門は、寂しい限りでした。なのでサッカーをみて渇きを癒したいと思います。

イタリアVSガーナは明け方4時〜

その前に日本VSオーストラリアですけどね。



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2006年05月08日

イタリア映画祭最終日『哀しみの日々』『二度目の結婚』『マリオの生きる道』

ああ、3本は疲れた。腰が痛い・・・
帰りの電車は席が空いているけど立って帰りました。座りすぎだ。

『哀しみの日々』塩野七生氏ご推薦の作品。監督が来日キャンセルになったのは本当に悔やまれる。この作品の子どもの年齢(長女は10歳くらい、男の子は7,8歳くらいか?)を考えると、一体マダムは何歳なんだ?。30歳で出産しても40歳前半?。そのわりにふけてるような気がした。子どもの年齢がもっと上のほうが、だんなが飽きた、という設定も理解できるような気がしましたが。この映画を見ながら、去年の『私のことを覚えていて』を思い出していたんだけど、イタリア人の親は、自分が不倫して子どもが傷つくことにうしろめたさはないのかい?

『二度目の結婚』トルナトーレっぽいテイストのイタリア映画。終戦2日後のお話。セピア色の画面。息子がしょーもない奴なのがよかった。人生どう転んでも結果オーライならいいじゃないか。万里の長城こえちゃいなー。

『マリオの生きる道』イタリアの若者の閉塞感を描いている。でも、イタリアの事情をよく知らない私から見るとよくわからない場面もあった。賄賂などの事情も皮肉ってあったのだろうが。
マリオが付き合う女性が、私の友人に似ていた(だからなんなんだ)

はぁ〜、なんとか全作品制覇しました。
さすがに、最終日でかなり疲れの目立つ感想。ごめんちゃい。。。

明日は日伊協会で「イタリア総選挙と今後のイタリア政局の行方」についての講演会がありますね。
詳細はこちら

さあ、今週末からカンヌですよ(私は行かないけど)
posted by マヤ at 10:53| Comment(1) | TrackBack(2) | イタリア映画祭2006 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月06日

イタリア映画祭4、5日目『母なる自然』『心の中の獣』『瞳を見ればわかる』

4日目、あらかじめスケジュールを組んでいなかったので、今日は1回目と最終回という中途半端な時間に見ることになってしまった。
『母なる自然』はナポリ人によるナポリの映画。昨日まで見てきた作品の雰囲気とはまったく違う濃い内容は新鮮だったけど、もともとアルモドバル映画もそんなに肌に合わない私には、性転換者(トランスセクシャル)がたくさん出てくる設定を、あっけらかんと楽しむところまでいかなかったと思う。
主人公が恋に落ちるハンサムなアンドレア、あんなのが普通に一般人なわけないよね(笑)?主演の女優さんは、スタイル抜群、ダンスやってらっしゃるのでしょうか。舞台挨拶ではフェミニンな白のワンピース姿、素敵でした。

『心の中の獣』詳しい感想は後日書くが、やはりこの映画がアカデミー外国語映画賞にノミネートされたことは、「幼児虐待」という題材がアメリカ人に強い共感をもって受け入れられた以外に考えられない。映画としての出来には疑問符。
このラスト、子供を産めば過去がなにかしら解決するということか?子供を産んでもまた同じことを繰り返してしまうだけではないのか、と思うのは私だけではないはず。

『瞳を見ればわかる』この前に上映された短編『自由な戦い』に、モレッティという名前をみつけたが、これはモレッティの奥様?
本編は、今日までで一番がっかりした内容だったかも。若い女性監督のデビュー作なのをさしひいても、テンポの悪さと、性格が反対だといいながら40年も連れ添った両親の内面にちっとも踏み込んいない脚本には不満。母親役はステファニア・サンドネッリ、父親役の俳優も名優だと思うが、ふたりの演技力を生かしきれてなかったと思う。

ここまで見て思ったのだが、今回選ばれた作品にはあまり若い男女がどうこうする映画がないのだが、もともとそういう映画がないのか、選ばれてないだけか、どちらなんでしょう?日本だと自分探ししてる若者の物語ばかりではないですか?

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2006年05月04日

イタリア映画祭3日目『聖なる心』『13歳の夏、僕は生まれた』、座談会

たった今、座談会が終わり、俳優と監督にサインをもらってきたところ。
それにしても、座談会も会場がいっぱいだった。信じられない。3年前はガラガラだったんですよ!!

昨日の立ち見の失敗を繰り返さないよう、本日は10:30に会場に到着。後ろのほうの空いている席に座れた。
『聖なる心』は企業のヤリ手女社長が、ある少女と出会ったことで、突然貧しい人々の救済に目覚めるお話。トルコ人のオズヴェデク監督の描く視点は、絶対的に少数派の側にあり、移民を描く視点にも傲慢さが微塵もないことが、この映画の最大の長所だと思う。自分の富を周囲の人々に提供することは、自分自身を救済したいだけなのでは?という問いもなされる。最後に自分の服をひとつひとつ脱いでゆくあっと驚く場面があるのですが、たとえ周りがエキストラだとしても、よくあんなシーン演じましたよね。女優魂に拍手です。この作品については、あとでゆっくりまた語りたい。

『13歳の夏、僕は生まれた』
実は2回目なのですが、やはり2回みると細部までかなりじっくり見ることができますね。そして1回目に多少よくわからなかったシーンも今回あらためて確認して、あたらめてジョルダーナ監督のやさしさに、1回目には出なかった涙が、2回目にみて出てしまった。
ジョルダーナ監督は、人間には生命力と好奇心という2つの特質があると、以前のインタビューで語っていたが、その2つの特質をもつサンドロ少年こそが、未来への希望そのもの。また、彼を心から愛する両親の気持ちも伝わってきた。
人から深く愛されたことがある人間は、人を愛せるのだ。

座談会では、監督2人のコメントがやはり群を抜いて面白かった。

ピッチョーニ監督は「真実というのは実は人口的なもののほうに隠されている。あらゆる人々は、人生において大なり小なり演技をしているのだ」という言葉は深かった。

ジョルダーナ監督はつらつら話が長くてだんだん脱線するようなイタリア人のおしゃべり(大変失礼)のイメージとはまったく異なり、端的に要点を的確に述べる人で、その頭のよさに感服しましたが、その中のコメントでひとつ
「あらゆる映画は意図していてもいなくても、時代の証人となる。私は映画で社会を描いているのではなく、人物を描いています。人物を描くことで社会を描くのです」

しかし、座談会の写真も去年までとり放題だったのに、今年からプレスのみになりました。ふーーーっ。

私はがんばって前に座っていたのですが、前の座席の人の頭が邪魔で後ろのほうがよかったかもしれない。


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2006年05月03日

イタリア映画祭2日目『見つめる女』『恋愛マニュアル』

私のお知り合いの方々へ・・・なかなか出会えないと思っていたら一名は本日遭遇しました。

本日はまず1回目の『見つめる女』。
甘く見てたんですよ。10:30からの回が満席になることはないだろうと・・・・

が、立ち見でした。

私は、短編と『夜よ、こんにちは』『13歳の夏、僕は生まれた』『家の鍵』の予告編(何回も見させられると正直うんざりなんです)をもうみたくないので、10:30ではなく、11時に会場に到着しました。
そしたら立ち見。

みんな、すごい!ていうか、キャパオーバーして当日券売ってるのかいな?

でも、映画はもし私が座っていたら寝てしまった(またかよ!)かもしれないほど静かな作品で立っていてよかったのかもしれません。
タイトルは直訳すると「傍観者」。一瞬にして恋に落ちた異性を追いかけ、仕事も放り投げてトリノからローマに移ったのににもかかわらず、いざその人と触れ合うと、深い関係になることを避けてしまうヴァレリア(バルボラ・ボルローヴァが好演)。キシェロフスキの「トリコロールの愛」シリーズを思い出しながら見ていたが、パンフレットに監督が敬愛するのがキシェロフスキだと書いてあった。パオロ・フランキ監督は69年生まれでこれが長編デビュー作。フランス映画好きにはたまらないかも。
この映画のラスト、とても好きです。
「恋愛に対して積極的なイタリア」というイメージを見事にくつがえす作品だったため、上映後の舞台挨拶で「イタリアにもこういう人がいるんですか?」と質問が出たのには笑った。主演の俳優二人はそろって「はい、います」と答えてました。

おつぎは、『恋愛マニュアル』★★★★★
いやーー、まってたんですよ、こういう何にも考えないで笑えるコメディ
えーーーえーーー、基本的にこういう映画が好きだってもう何回も言ってますけど、本当に笑った。会場も爆笑でした。
ぜひ日本公開していただきたいです。
「恋(出会い)」「危機」「浮気」「別離(字幕では「棄てられて」となっていた」の4つからなる男女の物語。
まず、何の予備知識もないまま、シルヴィオ・ムッチーノ君(「私のことを覚えていて)がまたかわいい笑顔を炸裂させてくれて、持ち味のオトボケを全快。一目ぼれする相手がジャスミン・トリンカ(輝ける青春のジョルジャ)じゃないの。彼女、化粧栄えするんだわ。ちょっとナタリー・ポートマンみたいな雰囲気もあり、大人になりましたね。
彼がガンガン女の子をくどくのが、すばらしい(笑)。あそこまで適当にあしらわれてぜんぜんへこたれないのがすごい。
この二人の恋路が一段落したら、お次は倦怠期の夫婦。次に婦人警官の夫が浮気する話。そして、最後ですよ、小児科医の中年男性がある日突然妻に逃げられ、自暴自棄になる話。もうコメディのお約束を全部つめこんでるって感じ。高校生のときの憧れの女性と食事の約束をするも、醜く丸々と太った中年女性に変貌した姿をみて逃げ帰ったり、職場の看護婦といい雰囲気になり、彼女の家にいったら夫が帰ってきて、ベッドの下に隠れて、しまいには窓の外に出され・・・というドタバタで笑わせてくれる。
この小児科医を演じたカルロ・ヴェルドーネってイタリアの国民的コメディアンなのだそうです。あああー、面白かった。
上映後、ディーノ・アップレーシャ(僕はこわくないで少年を誘拐する父親を演じた)にサインをしてもらった。
ふと、後ろを振り向くと『見つめる女』に出演していたアンドレア・レンツィが仲間と談笑している。ジェラルド・バトラーに似てるような気がするんだけどなあ。
無精ひげをきれいに剃っていて品のよいハンサムと青い目にしばしウットリ。

はい、私の本日の鑑賞はこれでおしまいです。

明日は座談会の日、そしていよいよマルコ・トゥーリオ・ジョルダーナ監督の登場ですね。

posted by マヤ at 18:04| Comment(0) | TrackBack(3) | イタリア映画祭2006 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月02日

イタリア映画祭開幕!『クオ・ヴァデス・ベイビー?』『私の望む人生』

早速レポートしますよー。
本日は15時からの『クオ・ヴァデス・ベイビー?』と
事務局が一番力を入れている?(チラシの写真だもんね)『私の望む人生』を観てきました。

とはいえ、仕事をなかなか抜けられず、『クオ・ヴァデス・ベイビー?』には20分も遅刻して入場。はじめは全く話がわからず、これはハズレ映画か?との不安がよぎるも、だんだんと面白くなってきたのであった。
『ぼくは怖くない』のガブリエレ・サルヴァトーレス監督の作品ですが、作風という意味では今までとぜんぜん違いますけど、これはおすすめできます。謎解きの面白さもあるし(とはいえ、目新しさはない)。
面白かったのは、40過ぎて?目の下にクマを二重に作り、16年間ネコと夕食をともにして色気もなんにもない女探偵ジョルジャ(この設定がこの映画の一番面白いところ)が、だんだんラストにいくにしたがって、女になっていくところでしょうか。
上映後の舞台挨拶では、ジョルジャの同僚役のアンドレア・レンツィ(ダンディだったー)が登壇。
なんと、この作品、テレビドラマ化されるんだそうです。


続いて開会式〜、会場はほぼ埋まっていましたね。

『私の望む人生』
いやあ、主演のふたりの演技でもっているようなものの、率直に言わせていただくとミスキャストではなかったか?と。
ロカーショは、他人と深い関係をもつことをなぜか避ける俳優役。(でもモテモテ)それって彼のキャラクターじゃないんではないかなあ。
対するサンドラ・チェッカレッリも、役をもらうためにずいぶんといろいろな男性と関係をもってきた新人女優さん役です。でもねえ、上映後、ロビーに出てきてくれたサンドラ・チェッカレッリの知的な大人の美しさにほれぼれした私としては、新人俳優じゃないだろー、別の俳優がやったほうがよかったんでないかなあと思わずにいられなかった。

俳優の実生活と演じている役の恋愛が同時進行する設定は非常に面白かったと思うが、肝心のところが弱いと思うのです。

ロ・カーショ演じる男が、どうしてああ頑ななのか、
チェッカレッリ演じる女は、どうして自分に自信がもてなくて、異性関係が奔放なのか。
また、最後に○○はかすがい、って展開にしたのも私としては物足りなかったです。そして、長いんだわ。途中でウトウトしました。
もうちょっと短かったらもっとよかったと思います。

上映後、ロビーでサインに応じていたサンドラはでっかかった。
私は2年前にロ・カーショをみているが、身長では
『トップ・ガン』のトムちんとケリー・マクギリスくらいの違いのように思えた。スクリーンではつりあってたけど、(でも顔はロ・カーショのほうが小さかったね)と、どうでもいいところが相変わらず気になるのでありました。

明日は10:30と13:15の回に舞台挨拶がありますので、そちら目当ての方は早起きしましょう。
posted by マヤ at 22:35| Comment(2) | TrackBack(1) | イタリア映画祭2006 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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