2010年01月05日

『神の道化師 聖フランチェスコ』ロッセリーニの演出

年末にご紹介したロッセリーニの映画『神の道化師 聖フランチェスコ』の祈りの場面。

繰り返して観ているうちに、ふと、今まで何度も観ていたのに全然気が付かなかった”あること”に気がつきました。

たいしたことではないんですが、もう一度、音に注目してこの場面を聞いてみてください。

フランチェスコに話しかけるように最初は騒々しく鳴いている小鳥たち。まるでイタリア人のようにさえずっております。

40秒過ぎたあたり、肩にとまった小鳥にむかってフランチェスコがはなしかけ、その小鳥を逃がしてから、急に落ち着きがなかった鳥たちがじーーとして静かになります。

さて、もう一度、注意してどうぞ







もちろん、映画ですから、カットごとに撮影し、当然鳥たちは別撮り、音声もあとから編集してつくっているわけです。

一見、素人さんを使い、あざとい演出などを何もしていないようでいて、こんなに何回も観てやっと気が付く(もちろん気がついていた方はいらっしゃったでしょうが、私は全然わからなかった)細かい演出。

これこそ、ロッセリーニなんですよ。

ヴィスコンティが演劇やオペラを演出したように映画を作ったのとは明らかに違いますが、私はこのロッセリーニも負けずにすばらしいと思います。

こういう場面が、『聖フランチェスコ』にはいっぱい詰まっています。



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2009年12月24日

平和への祈り 聖フランチェスコ

毎年クリスマスは本ブログ恒例(笑)平和への祈りを。






FOR PEACE

LORD,
make me an instrument of Your peace.
Where there is hatred, let me sow love;
where there is injury, pardon;
where there is doubt, faith;
where there is despair, hope;
where there is darkness, light;
and where there is sadness, joy.

O DIVINE MASTER,
grant that I may not so much seek to be consoled as to console;
to be understood as to understand;
to be loved as to love;
for it is in giving that we receive;
it is in pardoning that we are pardoned;
and it is in dying that we are born to eternal life.


Saint Francis of Assisi


神よ、わたしをあなたの平和の使いにしてください。

憎しみのあるところに、愛をもたらすことができますように    

いさかいのあるところに、赦しを

分裂のあるところに、一致を

迷いのあるところに、信仰を

誤りのあるところに、真理を

絶望のあるところに、希望を

悲しみのあるところに、よろこびを

闇のあるところに、光を

もたらすことができますように、

助け、導いてください。




神よ、わたしに

慰められることよりも、慰めることを

理解されることよりも、理解することを

愛されることよりも、愛することを

望ませてください。


なぜなら、わたしたちは

自分を捨てて初めて

自分を見出し

赦してこそゆるされ

死ぬことによってのみ

永遠の生命を与えられるのですから


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2008年12月28日

神の道化師、フランチェスコ

カチンコ2年前のクリスマスのとき書いた記事を再掲しますカチンコ


みなさま、よいお年をお迎えください ぴかぴか(新しい)


『神の道化師、フランチェスコ』Francesco Giullare di Dio (1950年)

poster.jpg

フェリーニのエッセンスに溢れるロッセリーニの傑作

ロッセリーニというと、戦後ネオリアリズムの『無防備都市』や『戦火のかなた』などが日本では有名だが、実はこれらの作品、正直にいうと、私にとっては「同時代性」を感じられず、ネオリアリズム映画の教材のような、勉強のために見るような作品なのです。つまり、戦中、戦後の庶民の生活の大変さをほとんど他人事のように見てしまう自分がいる。だからロッセリーニのすごさを現代の日本人はあまり理解できないのではないかと思います。今、見るならむしろネオリアリズムが一段落ついた後、違う作風に取り組んでいた時代、本作や、イングリッド・バーグマン主演作何本かを見るのがおススメです。


一応、戦後の混乱は落ち着いて、人々が自分の生き方とは何かを模索しはじめた、ロッセリーニはその時代には、そういった作品を作っていきます。(でもそのスタイルはイタリアの映画批評家には酷評された)つねにその映画スタイルを変化させた人ですね。反面、ヴィスコンティは晩年になればなるほど、過去にさかのぼり、内容はより個人的になり、時代と隔絶した人間の孤独、そして時代の終わり、死を描くようになる。そしてこの2人は同じ年、1906年生まれで今年生誕100周年を迎えます。
日本ではヴィスコンティはとにかく人気がありますが、ロッセリーニの偉大さももう少し語られてもいいと思います。

と、いつものごとく前振りが長くなってしまいました。
クリスマスにおすすめの小さな名作を紹介します。
1950年製作の『神の道化師、フランチェスコ』です。

FOTO9.jpg
有名な「小鳥への説教」場面


本作は脚本にフェデリコ・フェリーニが参加しています。それを頭の片隅においてみると、映画のいたるところ、いや全編にフェリーニのエッセンスがちりばめられていることがわかります。そういう意味では、フェリーニファン必見の作品であるといえます。フェリーニは『無防備都市』からロッセリーニに才能を認められ脚本に参加していますが、本作は、ロッセリーニの映画の中でももっともフェリーニ色が強い映画といえます。助監督してるんじゃないかと思うほどです。音楽の入れ方もフェリーニっぽいです。とはいえ、フェリーニの才能をうまくいかして、1本の映画をまとめたロッセリーニの手腕が見事というべきでしょう。

image3.jpg

この映画をみて、去年、ちょうどこの時期に紹介したパゾリーニの『奇跡の丘』を思い出し、もしかしてパゾリーニはこの映画を少し参考にしたのではないかと思いました。また、もう1本私が愛する映画タルコフスキーの『アンドレイ・ルブリョフ』もなんとなく本作に似ています。偉大な人物を描くとき、それを時系列に追うのではなく、一見なんの関連もないエピソードを並べることによって、ひとりの人物の全体像が浮き彫りになる、ということがあります。この3本に共通するところはそれです。

『神の道化師、フランチェスコ』の素晴らしいシーンはたくさんありますが、どれかひとつを選ぶとしたらやはり『私のイタリア映画旅行』でスコセッシが選んだ、ライ病患者とフランチェスコの遭遇のシーンでしょう。
この場面については余計な解説は一切したくない。ただ観てほしい、それだけです。
そして最も素晴らしいこのシーンは、最も厳しく残酷なシーンでもあり、むしろフェリーニよりロッセリーニのリアリズム描写が冴え渡っています。

このほか、弟子のジネブロが狂言回しのような役で登場しますが、ボケ役のジネブロのキャラクターはそのままフェリーニの映画に出てくる「境界線にいる人々」であり、そういう人々が面倒を起こしても(しかも彼らはとっても魅力的!)いつも優しく受け入れるフランチェスコの寛容さ、それがフェリーニの理想郷をあらわしているようでもあります。

本作のフランチェスコはよく泣いています。どうして泣くのかというと、それは自分の無力さを嘆いて泣いています。そしてよく微笑みます(声を出してアハハとは笑いません)。そしてしょっちゅう神様に感謝しています。どうして感謝するかというと、小さいことでもそこに神様の恩寵や恵みを感じているからです。
本作はこういう映画には珍しく字幕がよかった。もともと台詞が少ないのですけども日本語の言葉の選び方に、キリスト教への理解を感じました。
最後のエピソードのタイトルが「フランチェスコ、完全なる歓びを知る」というのですが
ヨロコビというと、普通「喜び」です。その他に常用外として慶び、悦び、歓び(どうしてこんなに豊かな表現がたくさんあるのに常用外にするんだ?)という表現がありますが、本作では「歓び」としている。「歓喜」というときの漢字ですね。宗教的な体験の場合はやはりこの漢字を使うべきだと思いますが、本作の字幕はちゃんと「歓び」としていたこと、当たり前といえば当たり前なんだけど、字幕にも満足いたしました。
字幕は関口英子さんでした〜、グッジョブ!

こんな素晴らしい映画、ヴィスコンティ作品と同じくらいどこかで放映してくれないでしょうか?

最後にフランチェスコの「平和を求める祈り」を引用します

FOTO1.jpg

神よ わたしをあなたの平和の道具としてお使い下さい
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光りを
悲しみのあるところによろこびをもたらすものとしてください
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
わたしが求めますように
わたしたちは与えるから受け
ゆるすからゆるされ
自分を捨てて死に
永遠の命をいただくのですから



皆様、メリークリスマス!


【参考過去記事】
ブラザー・サン シスター・ムーン BROTHER SUN, SISTER MOON http://myvoyagetoitaly.seesaa.net/article/9544726.html





posted by マヤ at 12:57| Comment(5) | TrackBack(1) | ロッセリーニ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月26日

メゾンエルメスで観るロッセリーニ

7月12日から銀座のメゾンエルメス ル・ステュディオでロベルト・ロッセリーニの『インディア』を上映しています。

毎週土曜日11:00、14:00、17:00の3回

完全予約制ですが、無料。

なにより銀座のエルメス10F、
40席のサロンのような空間で映画を楽しめますから本当にオススメです。

しばし都会の喧騒と真夏の暑さを忘れて優雅に映画鑑賞。


この作品はインドを舞台にした4つのエピソードからなるドキュメンタリーで、作風としては『神の道化師 聖フランチェスコ』に似ています。

『神の道化師 聖フランチェスコ』についてはこちらの過去記事を参照
http://myvoyagetoitaly.seesaa.net/article/30044623.html

バーグマンとの関係が破綻したロッセリーニがインドに渡って作ったのが本作ですが、たぶんこの映画を撮影しているときに知り合ったインド女性とさっさと交際をはじめたという、さすがイタリア男!と自伝を読みながらズッコケタ記憶あり。(しかし、当時ロッセリーニは相当叩かれました)

ロッセリーニは、インドでネールとガンジーにも面会しています。

私がとても興味深かったのが、世間では聖人と崇められていたガンジーについてロッセリーニはよい印象を持たず、むしろネールのほうを称えていたことでした。


映画について話をもどすと、これは厳密にはドキュメンタリーではありません。役者に演技をさせていますし、ストーリーもつくっています。

それにしても象使いの男と象の働く姿を、ナレーションを一切入れずに、鈴の音(象が首から下げている)だけでみせる手腕は見事!

そのほかにもトラや猿など、動物がとてもかわいいのです。

インドを舞台にしたドキュメンタリーと聞くと、もっと宗教的なイメージの連続か、現代社会への痛烈な批判が込められているのかな、などと勝手に想像してしまいませんか?

それなのに、映画にはとてもほほえましい可愛らしさが全編に漂っている、、、それに本当に驚きました。

西洋人がアジアを舞台に作るドキュメンタリーという先入観を見事に打ち砕いてくれる作品です。


やっぱり、ロッセリーニはすごいんだ。

バーグマンがハリウッドを捨てて飛び込んだ男だわ♪


posted by マヤ at 23:14| Comment(2) | TrackBack(0) | ロッセリーニ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月28日

『ロッセリーニの<自伝に近く>』朝日新聞社

ロッセリーニの<自伝に近く> 朝日新聞社

パパはおでぶさんでした。
なにか気になることがあると、うなじの髪の毛の先を、指で巻くくせがありました。わたしたちが年頃になって、パーティーからの帰りがおそかったりすると、パパの頭は、くるくるの巻き毛でいっぱいでした。

ロッセリーニとバーグマンの間に生まれたイザベラ・ロッセリーニのまえがきから始まる。

ステファノ・ロンコローニが行った15時間あまりのインタビューをロンコローニとロッセリーニとが編集して作り上げた(しかも未完成)もの。とはいえ、ロッセリーニが結構手を加えたらしく、自伝の展開もロッセリーニの映画そのままにエピソードの積み重ねで展開します。

しかも編者もあとがきで語っているように、

「本の作業は、彼がしたところまでで終わった。小さな自叙伝としては未完成だが、その意味するところは十分に尽くされていた。(中略)
より断片的な自伝的作品でさえも、ある視座の選択をともなうからにはパラダイム性をもつことが真実であるならば・・・・(略)。」

一読するとまとまりのない自伝に思えるのに、全体を通して読後振り返ると、まさにロッセリーニの自伝になっているのが不思議でしょうがありません。

そう、『神の道化師、フランチェスコ』の作風というのが、まさにこの自伝の組み立てにそっくりです。

訳者すら、あとがきに「ロッセリーニは作家としての全体像の焦点がさだめにくい人である」と同じことを書いています。


1章と2章には彼の人類への警告のような主張が熱く語られています。
「私は映画作家ではない。」「わたしのしごとは、日々に学び、叙述して、つきせぬものー人間のしごとである。では、人間とは何か?直立する生き物、宇宙を見ようとしてつま先で立つやつだ。私の情熱、多分、わたしの狂気でもあるのだが、それは日々にすこしずつ、理解を増やす事だ」

私はロッセリーニの作品をほとんど見ていないので、これをきっかけに日本で見れるものを見ておきたいと強く思うようになりました。

ロッセリーニは、ローマ中心部の街並みの開発を請け負う建設業者の家庭に生まれました。父親は1920年代にはイタリア随一の立派な映画館を作った人で、芸術にも造詣が深い父親の周囲には音楽家、画家、小説家などが集い、家はサロンのようだったらしい。
ロッセリーニは、レオンティーヌというフランス人の乳母に育てられ、ローマ弁よりフランス語を最初にしゃべった。レーサーを目指し、父親に反発し、50回家出し、借金を作り、都度父親がそれを払った。18歳から20歳にかけては愚行の限りをつくし、大学を中退し、女子の尻をおいかけ、永遠に熱愛し、モーターサイクルや、フィアット、サルムソン、アミルカルなどの車でレースをし、どうにもならない性の欲求につき動かされて、相当な無茶をした。
父親の死後、遺産を全て使い果たした後、ドキュメンタリー映画を撮影した。

そのときに、なんと多少なりとも日本とのご縁があるのですよ。

29年に、ナポリ湾の海底探検をしようと、日本人の生物学者が3人、ナポリにやってきた。わたしは彼らの泉水に同行することができ、おおきな鼻のような海底生物が息づいているナポリの海をみた。それをフィルムに定着させたかったが、水中撮影の設備なしではどうすればいいだろう?
そして、家の屋上に水槽をおき、つってきた魚をいれて撮影した。
こうしてできたのが『海底のファンタジア』という10分のドキュメンタリーで、大好評を博し、映画会社と契約したのだ。
実際、この後紆余曲折があり、すぐ脚光を浴びはしなかったものの、唯一出てくる日本に関する記述がここです。
また、海の中を撮影できなければ屋上に水槽を作って撮影するという、バイタリティ溢れるというか臨機応変というか「限られた状況の中でも工夫して最大限に自分の欲求を形にする」という姿勢は、ロッセリーニの生涯を貫ぬくカギになっているような気がします。
ロッセリーニは『イタリア旅行』という映画をとっていまして、私は未見ですが、そうかスコセッシの『私のイタリア映画旅行』はここからとっているのか、
だから私のブログタイトルの元はスコセッシではなく、なんとロッセリーニなのかも、という嬉しい発見もありました。

晩年の写真はずいぶんと太っていますけど、端正な顔立ちだし、女性にモテたのはすごくわかる気がします。
アンナ・マニャーニらと浮名を流し、2度離婚した後もインド人の愛人、娘のように若い恋人などと常に女性が傍らにおり、バーグマンという大女優にハリウッドを捨てさせ(そして、自らはハリウッドに魂を売ることはなく、イングリッドとは別れた)た。
女性が大好きなのは当然として、自ら語っているとおり、ロッセリーニは人生の大事なところでは女性のためにその判断を曲げることは一切していない。絶対妥協しない、男気あふれる人なのです。


Roberto_Rossellini_1.jpg


posted by マヤ at 16:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ロッセリーニ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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