2007年09月27日

2007年08月04日

イノセント 追加

『イノセント』でさんざん主演のトゥリオを非難してしまいましたが、

もうひとつ、大事なことを書き忘れていました。

私、観ているときに「この嫁、おとなしそうな顔して悪女?」とチラッと頭をかすめたんですよね。

だんなが浮気しているときに、寂しくてつい他の男性に走ったのはしょうがないにしても。それで妊娠してしまうというのが、まず「え?」ですよね。それからその子を産むと開き直った時点で、もう夫に対する愛情なんてないのは女性なら誰しもわかるでしょう。

それでいて、夫との関係は絶たない。

どうせなら、拒んでしまえばすべてはっきりするのに、どうして「あの子をうらむ」とか夫には夫が喜びそうなこと言うんでしょうか。

子供を生むと聞いて、ショックを受けている夫をみてじりじり復讐してるみたいにもみえなくもない。

夫との夫婦関係も続けているところが、女の打算というか、母親になりきれてない「女でいたい」部分が見えてきて、


ああ、かいているうちに、今度はトゥリオが可哀相になってきました(笑)

2007年08月01日

イノセント

ヴィスコンティの映画の中でもっとも官能的な一本でしたねー

コルセットでガチガチに固めているドレスを脱いだらすごいんです(笑)という、この女優さんの体、あー、うらやましいなあ\(-o-)/なんて思いながら観ておりました。

innocent.jpg
ほーら、すごいでしょ


それで観終わってから、主演の女性がラウラ・アントネッリという人で、『青い体験』に主演していた人だと知る。


おおおおおおっ、そうだったんですか。

『青い体験』一昔前の映画で観たことないですけど、タイトルだけは非常にインパクトありますよね。

『青い体験』おオリジナルタイトルは『Malizia』っていうんですよ。
これは悪意、意地悪、悪知恵という意味で、カルチョ好きなら、一度は耳にしたことがあるはず。
「日本のサッカー選手にはマリーシア(狡猾さ)が足りない」ってよく言われます。
これ、サッカーではいいことなんですよね。
武士道からすると、よろしくないことなんですが(笑)


で、


『イノセント』の話に戻りますね(笑)

アマゾンの解説によると旧約聖書に出てくる、ヘロデ王に殺されたベツレヘムの幼児のことをあらわすと。無垢な命を奪う罪深き王というまあ、映画を観ればそのとおりなのですが。そうですか。なるほど。

この映画は、イタリアの作家ダンヌンツィオの原作を映画化したもの。私はダンヌンツィオというと、三島由紀夫の『仮面の告白』を思い出しますね。

ヴィスコンティの映画を語るとき必ず出てくる退廃という言葉。
特に、本作は遺作ですし、もっと暗いかと思ってみたのですが『ルードヴィヒ』ほどでもなかった。
ラウラの豊満な肉体のおかげでしょうか(笑)。

むしろ、仏小説の『危険な関係』みたいだなと。恋に遊んでいたはずが遊ばれた、ミイラとりがミイラになる話。

この男、いい年してとんでもないアホだな

だって、自分がさんざん遊んでおいて、その合間に卑下していた妻が浮気してると勘付いたとたん、今度は妻に夢中になるってさ

しかも、赤ちゃんに「奥さんの愛情もってかれたのーーっ、ひぃーー」

って・・・こいつ、赤ちゃんと張り合ってるよ・・・ヴァカ
当たり前じゃん、そんなの。

しかも、それを愛人に話すって。愛人はあんたのこと好きなのに、その女性に向かって「僕が愛していたのは妻だ」って話をさんざん聞かせて、それで慰めてくれると思ってんのか。

女心を踏みにじるただのヴァカ男じゃないですか、こいつは!!ムキーッ(と、とつぜんのだめになってしまう)


・・・・という感想は、女性視点なのでしょうか。


男性はこの主人公の気持ちわかりますか?


貴族って、立派な邸宅に住んで、フェンシングで汗流して、高級な洋服に身を包んで、馬車に乗って遊びまわって、浮気して、のんきなもんですよね。しかし、料理食べてる間、召使が真正面で立って見てるんですね。庶民はあれじゃ落ち着いて食べれません。
食べ方が、音を出さないようにスープを飲む様子が非常にマナーの勉強になりましたけど。(こういうディテールが素晴らしいと思う)

ふと、人間、働かなくてもいいのなら、恋愛くらいしか真面目になるものはないのかもしれないなと思いました。


もしお金持ちになったらどういう生活をしますか?

と言われたら、みなさんの思い浮かべる生活はどんなもの?

私はまずまっさきに、ヴィスコンティの映画に出てくるような貴族のような生活を思い浮かべますね。

でも、結局、その先に何かもっとやりたいことがないと、こんな風になるのかも。

そして空虚な心のまま、映画のラストのように。。。『ルードヴィヒ』のように・・・

ヴィスコンティは映画の中で死んでいく人ばかり描きましたが、本人は作りたい映画がまだまだたくさんあり(『失われた時をもとめて』など)、病に倒れても執念でリハビリをしていたという。リハビリしすぎて骨折したりもしている。ものすごく生きることに貪欲だった人だと思います。ヴィスコンティの動画をみても、眼差しの強さに圧倒されます。ギラギラしていると思う。その人が映画では、死んでいく人ばかり撮っていたのはなぜなんでしょうか。

きっと、失われていく時代、そこに生きていた貴族を描けるのは自分しかいない、と思っていたのではないでしょうか。
そんな使命感にかられていたのかも。








ついでに、『青い体験』ビデオならプレミア価格でありましたよ(笑)







2007年07月31日

ベニスに死す ひどかったー

ヴィスコンティ映画祭

『ベニスに死す』

ひどい

あのフィルムなに?

赤く日焼けしちゃって、保存悪すぎ

あんなひどいフィルムで上映するんだ・・・唖然

あれならDVDを上映したほうがマシ

あの状態のフィルムでお金とって上映するのって観客を冒涜してるとしかおもえん。お客さんもさ、怒りましょうよ。

写真展も(観てないけど、入り口からほとんど全部みえてるじゃん)
ぼったくりすぎ。

あんなフィルムを上映するのはヴィスコンティに対しても失礼です。

今までいろんな映画を観てきていますがあんなにひどいフィルムでの上映ははじめてなんじゃないかな。

あと何回『ベニスに死す』の上映があるのか知りませんが、みなさま絶対観にいってはいけません!


2007年07月30日

熊座の淡き星影

イタリア文化会館で開催中の写真展にあわせての映画祭

『熊座の淡き星影』を観てきました。初見。

vaghe_stelle_orsa.jpg
イタリアのDVDパッケージ

この映画、密室劇のような地味な作品です。

今、フィルモグラフィーを見直してみたらこの作品の前に『山猫』を撮っているのですね。
『山猫』でお金を使いすぎてヴィスコンティは製作会社を倒産させているので、このようなシンプルな作品が出来上がったのかもしれません。

しかし、『熊座・・・』は『山猫』の後ということで、非常に重要な作品だと思います。

私個人は『山猫』がヴィスコンティの最高傑作だと思っています。最高の到達点というべきか。『山猫』までで、ヴィスコンティは政治的なメッセージのようなもの、作品にこめた未来への希望や理想をすべて描きつくしてしまったと思います。後はもう、、なんというか、過去にとらわれて、過去に生きて、そして死んでいく人間しか描かれていないのではないか、と思うのです。『山猫』もある意味そういう映画でしたが、新しい世代の代表のようなクラウディア・カルディナーレと舞踏会で踊ることで、未来と一瞬だけ交わったというか・・・あれが頂点で、あとは、まあ映画のとおりですし、その後のヴィスコンティの作る映画のとおりであるともいえる。

この映画で私がよくわからなかったのがサンドラ(クラウディア・カルディナーレ)の父親がユダヤ人であり、ナチスの強制収容所で死んでいるという設定なのですが、それを「呪われた血」と母親がいう場面ですね。母親は精神の病を患っていますが、最後の除幕式のところでもユダの司祭がユダヤ教の一節を唱えるのですが、あの場面、ヨーロッパの人が見るとなにかしら思い当たることがあるのでしょうか、私はよくわかりませんでした。

この話はギリシャ悲劇をモチーフにした”現代のエレクトラ”、もしくはエディプス(オイディプス)王のようなものだとヴィスコンティは語っています。

vaghe_stelle_orsa2.jpg
クラウディア・カルディナーレのアイラインで強調した目力がすごいっす。


エレクトラは、弟と結託して父親殺しの復讐をする話で、エレクトラコンプレックス。。。女児が父親に対して強い独占欲的な愛情を抱き、母親に対して強い対抗意識を燃やす状態を指す。。。の語源にもなっています。

映画のストーリー自体は、ギリシャ悲劇のオレステイア(映画では弟役にあたる、オレステイアでウィキペディアで検索してみてください。)とエレクトラの話をじょうずに組み合わせて、舞台を現代に置き換えています。

興味深いのは、「おそらくソフォクレス時代の観客なら、犯人はエディプス(オイディプス)なのではなく、運命なのだと確信して劇場を去るところだろう」と言っていること。

つまり、この映画のような悲劇がおこったのは、誰か絶対的な悪者がいたからではなく、人間がどうあがいても逃れられない運命のせいだということではないか。それが、立派な家、立派な家柄、血筋のせいかどうかは知りませんが、まさしくヴィスコンティが自分の血統にとらわれ、呪っていたのではないかと思わせる言葉です。

歴史のある建築物に押しつぶされそうになる、家が魔力を持っているようにミステリータッチで描いてるのも興味深いです。

それにしても、どうしてこう「過去にとらわれているんでしょうか」
観ていてそれが一番悲しかったです。
そしてとらわれている人間が死にます。未来を観ているクラウディア・カルディナーレは生き残ります。死ぬのはいつも男なんですよね、ヴィスコンティの映画は・・・。

この映画のちょっと息抜きのような存在、夫のアンドリューですが、当時イタリアに溢れていたアメリカ人の観光客をパロディにしているそうです。

物腰ももちろんですが、過去がありそうな家庭の揉め事を「100%よかれと思って調停に入り、むしろ泥沼化させる」という

「善意にもとづくおせっかい」をして、顰蹙を買うというキャラクターがいかにもアメリカ人らしくて、私的には「愛すべきアンドリュー君」だったわけですが、みなさんはどうだったでしょうか(笑)

妻にあそこまでされてもニューヨークて待ってるよって言ってくれてるし(笑)








2007年06月29日

『ヴィスコンティの遺香』篠山紀信・写真展

7月20日よりイタリア文化会館にてヴィスコンティの写真展と映画上映があります。

たしか、昨年夏も『山猫』などを上映していたと思うのですが、何度観てもいいんですよね

この写真展は私は昨年大阪で観ております。


過去記事参照
http://myvoyagetoitaly.seesaa.net/article/27665781.html

このときと全く同じ内容か、多少違うのか詳細はわかりません。

大阪の写真展を見る限りにおいて、おそらく昔からのヴィスコンティファンにとってはそれほど目新しい写真ではなかったと思います。

しかし、私などにとっては、えっとどこだったかな、海の一望できる別荘の写真にみとれました。

さいきん、巷に溢れるセレブという言葉が陳腐に思える絶景の海辺のヴィラ。

ピンクがかったパープルの明かりが灯るランプ台、髪の毛をとかすブラシ、それがさりげなく置いてあるテーブル、などなどのひとつひとつ、身の回りのものがすべて美意識の塊のような、美術館に置いていあるような調度品に囲まれていたのだ、そして骨のずいまで染み付いていたのだ。。。これじゃなきゃあんな映画は撮れないよなぁ。


そしてひととおり見終わった後、小腹がすいた私は、展望フロアのカフェで、


たこやき


食べてる自分



一句

秋雨にゆれる梅田スカイビル
たこやきの味、ヴィスコンティ哉

詠み人知らず



さて、東京近郊の皆様、必見の写真展ですので、みなさま九段下から散歩がてら赤い建物目指して汗だくで歩いていきましょう

http://www.conversation.co.jp/schedule/visconti/#gaiyou

チケットはこちら
http://eplus.jp/sys/main.jsp?prm=U=88:P0=GGWB01:P10=1:P2=019449:P5=0001:P6=001


2007年01月16日

映画『ヴェニスに死す』動画

またまたYouTubeより

すでにご覧になっている方も多いかとは思いますが、
原作を読んで映像をみると、また感動もひとしお・・・・

morte a venezia.jpg

『The Death in Venice』予告編(英語版)
http://www.youtube.com/watch?v=Kd2v0FzIjpA


映画の1シーン 美について芸術についての論争 5分25秒の長い映像
こういうシーンは小説にはありませんでした。
http://www.youtube.com/watch?v=LfS5qATp4I8


海岸でのひととき ある時代のある瞬間、それを見事に再現しています。
この場面はせりふがほとんどないのですが、流れるような進行にうっとりします。海岸でくつろぐ人々、日傘をもった婦人たちが海岸を横切り、タッジオが海から走り出てきて、最後にカメラマンがさりげなく画面を横切るところもすべて計算づくだと思います。
morte-a-venezia.jpg

http://www.youtube.com/watch?v=aarURdcFABc


アッシェンバッハ、ちょっと気分が悪くなる
http://www.youtube.com/watch?v=khijQavLBWQ


あのー、ここまですばらしい作品を紹介しといてなんなんですけども、
アッシェンバッハがカトちゃんに見えてしょうがないんですが・・・

Dark.jpg

katochan.jpg
(一日も早い復帰を心よりお祈り申し上げます)

似てませんか?

2006年11月20日

いよいよ本日からですNHKBSヴィスコンティ特集

あっという間に今日からです。しかも20時からです。
すっかり録画セットしてくるの忘れた私ではありますが、よく内容をみたら先日大阪で上映されているとお伝えしたリツィアーニ制作のドキュメンタリーでした!

http://www.nhk.or.jp/bs/

●21日(火) 後8:00〜9:56 夏の嵐 1954年・イタリア
●22日(水) 後8:00〜9:43 白夜 1957年・イタリア/フランス
●23日(木) 後8:00〜前0:00 ルートヴィヒ 1989年(オリジナル1972年)/イタリア・西ドイツ/フランス
●27日(月) 後8:00〜10:50 若者のすべて 1960年・イタリア/フランス
●28日(火) 後8:00〜10:12 ベニスに死す 1971年・イタリア
●29日(水) 後8:00〜10:22 郵便配達は二度ベルを鳴らす 1942年・イタリア
●30日(木) 後8:00〜9:41 熊座の淡き星影 1965年・イタリア

2006年11月17日

ヴィスコンティに関するドキュメンタリー2本

更新が滞ってしまい、ごめんなさい
PCが故障のため、某所?からひっそりと更新します。


11月3日から開催中の大阪ヨーロッパ映画祭で

ヴィスコンティ&アドリアーナ・アスティへのオマージュという特集が組まれています。

大阪ヨーロッパ映画祭公式サイト:http://www.oeff.jp/database/560_Visconti-Schedule-Tickets.html

過去記事参照:
http://myvoyagetoitaly.seesaa.net/article/26428288.html

映画上映のほかに、特別展示として梅田スカイビルタワーイースト40Fで
ヴィスコンティの遺香と題した写真展が開催されています。
展望台チケットを購入すればどなたでも鑑賞できます。

ここでヴィスコンティに関するドキュメンタリー映画が2本、「ルキノ•ヴィスコンティの肖像」、「20世紀の巨匠ルキノ•ヴィスコンティ」
が上映されています。

http://www.oeff.jp/database/557_Il-Documento-di-Visconti.html

おすすめ!必見です!

わたしは、「ルキノ•ヴィスコンティの肖像」のみみましたが、71分にヴィスコンティの足跡が凝縮されており、内容の濃い、かつ、勉強になる1本です。
部厚い伝記を読む気力がなくても、この1本でほぼ彼の業績を振り返ることができます。

とくに、映画だけでなく、演劇での彼の業績についてはなかなか日本では語られませんが、そちらについても知ることができます。

ヴィスコンティが最も愛した1本、
「それが何かと尋ねられたらこれを選ぼう・・・」というナレーションで画面に写されるのが『若者のすべて』でした。

そのほか、もっと書きたいこともあるけど、百聞は一見にしかず。

大阪の街を展望できて、ヴィスコンティのドキュメンタリーを2本も堪能できて、かつ、篠山紀信氏による写真展もみられる。

みなさま、11月26日までです。関西方面の方、是非足をお運びください!

visconti_oosaka.jpg

写真は公式サイトから


2006年10月04日

11月20日からNHK-BS ヴィスコンティ特集

おおおお、映画館でやらないほうはBSでも観れるのですね!
これはもう永久保存版ですね。
ルードヴィヒは72年のオリジナル版のほうをわざわざ放映してくださるとは。


11月20日(月) 後8:00〜9:00
ドキュメンタリーLUCHINO VISCONTI 1999年・イタリア

11月21日(火) 後8:00〜9:56
衛星映画劇場 夏の嵐 SENSO 1954年

11月22日(水) 後8:00〜9:43
衛星映画劇場 白夜 LE NOTTI BIANCHE 1957年

11月23日(木) 後8:00〜深夜0:00
衛星映画劇場 ルートヴィヒ LUDWIG 1989年(オリジナル1972年)

11月27日(月) 後8:00〜10:50
衛星映画劇場 若者のすべて ROCCO E I SUOI FRATELLI 1960年

11月28日(火) 後8:00〜10:12
衛星映画劇場 ベニスに死す DEATH IN VENICE 1971年

11月29日(水) 後8:00〜10:22
衛星映画劇場 郵便配達は二度ベルを鳴らす OSSESSIONE 1942年

11月30日(木) 後8:00〜9:41
衛星映画劇場 熊座の淡き星影 VAGHE STELLE DELL'ORSA・・・ 1965


http://www.nhk.or.jp/bs/
11月の番組カレンダーをどうぞ


2006年08月17日

ヴィスコンティとマリア・カラスのインタビュー動画

観ているだけで幸せになる、神々しく輝く2人。

イタリア語で何と話しているのか、勲章なお方がいらっしゃいましたら概要だけでもコメントで書き込みしていただけないでしょうか?
多くの人が喜んでくれると思います。

マリアの才能を称えるヴィスコンティ・・・かな。

1分49分の珠玉の映像はこちらです。

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2006年07月23日

ヴィスコンティ生誕100年祭

2004年に大回顧展を開催したばかりな気もいたしますが、今年も秋に代表作3本を大きいスクリーンで堪能できます。

10/7(土)よりテアトル・タイムズスクエアにてろーどしょー

タイムテーブル
10/7〜13ルードヴィヒ10:40 山猫15:25 イノセント19:00
10/14〜20山猫10:50 イノセント14:30 ルードヴィヒ18:30
10/21〜27イノセント10:40 ルードヴィヒ13:35 山猫18:50
10・28〜11/2 ルードヴィヒ10:40 山猫15:25 イノセント19:00

併催イベントとして
10月20日〜11月18日 『ヴィスコンティの遺香』篠山紀信写真展が
イタリア文化会館にて開催

関連書籍も発売予定です。
しかし、生誕100年ということはイタリアで、また世界各国で同様の催しがあるのでしょうか?
日本人ってヴィスコンティ好き?

2006年04月16日

『山猫』Il Gattopardo (1963) 

Leopard1.jpg

今まで英語版などはビデオで観たことがありましたが、完全版は初めてみました。

今回は、『人びとのかたち』の中で塩野七生氏が指摘したことを念頭において観ました。
シチリアに起源をもつマフィアが、現代イタリアを足元から脅かす無視できない存在になってきたことに危機感を募らせている塩野氏が、「ではなぜシチリアがこのようなことになったのか」のひとつの答えがこの映画にある、と指摘していたからです。
後半、イタリア王国新政府の役人としてトリノからやってきた役人シュバレーとの対話の場面で、それまで寡黙だった公爵の口から彼の考えが静かに語られます。演出でいうと、華やかな舞踏会の前の、壮年の男性2人の静かな対話です。公爵は舞踏会ではほとんど台詞はありませんから、非常に大事な場面だと思います。
塩野氏は「公爵がこのときイタリア王国上院議員への就任依頼を辞退せず、新政府のために尽力したら、シチリアは現在のようにはならなかったのではないか。彼は確かに立派な人物(=高貴な山猫)であるが、未来を良くしてしこうという志(それを塩野氏は「品格」という言葉で表現しましたが)それがなかったため、シチリアを取り巻く諸問題は解決するどころか現在に至るまでの事態はますます悪化しているのだ」と述べているのです。

Leopard4.jpg
タンクレディってベルルスコーニとかぶる

「品格」・・・・今、日本で『国家の品格』という本が売れているなんてタイミングいいじゃないですか!文庫本もいいけど、『山猫』を観るのも「品格とは何か」について考えるきっかけになるのではないかと。。。。

この公爵は確かに立派な家系の出身であり、知識があり、教養があり、容姿端麗で、思慮深く、堂々としていたとしても、真の品格をもちえなかったと塩野氏は指摘しているのです。とはいえ公爵ももっと若かったら、もしかしたら違っていたかもしれない。高貴な山猫とはいえ、老山猫ですから。でも、公爵が去った後は、ドン・カロージェロのようなハイエナのような連中がシチリアを支配してしまった。あのときがイタリア現代史で一番大事な変革の時期だったのに、それをみすみす見逃して何もしなかったことの罪は重い。との塩野氏の指摘を読むと、私は確かにこのサリーナ公爵のことを「滅びゆく貴族」という言葉をあてはめてロマンチックに語る気にはなれないですね。現に、ヨーロッパで貴族は滅びてませんし。(というか舞踏会で馬鹿騒ぎしてた人たちが生き残ってるというべきか・・・)

またこの映画は、イタリア統一の歴史についての知識があるのとないのとでは、受け取り方がだいぶ異なると思いました。あまり知識のない私も、この映画を初めてみたとき「貴族の終わり」「滅びの美学」という視点で見てしまったわけですが、ヴィスコンティのインタビューを読むと、違うようです。
「結論からいえば、私もまた、イタリアのリソルジメント(統一)を「満たされなかった革命」、いやそれよりも「裏切られた革命」と定義するものの一人なのです。」

Leopard3.jpg

『山猫』は、イタリアのリソルジメントが「満たされなかった革命」だったのはなぜかを210分かけて描いた映画であり、最初から最後までその軸は一切ぶれず、完璧に物語が進行します。そう見ると、サリーナ公爵の絶望は、自分の立場が危ういとかそんなことではなく、イタリアの革命の失敗を予感しての絶望というふうに解釈できます。
そして現代に生きる塩野氏が、この映画が現代のイタリアを予言していたというのなら、まさしくそこに『山猫』のすごさがあるのだと思います。

さて、私は舞踏会を観ていて、どうしても気になることがありました。
貴婦人たちは額の汗を拭くのに余念がなく、婦人たちは扇子を扇ぎ続ける。到着したばかりなのにすでに気分が悪くなっている公爵。でも紳士だからボタンをきっちりしめてますね。そりゃあ具合悪くなりますよ。
「なぜヴィスコンティは、季節を夏にしたのだろう」
考えたのは、この舞踏会はただひたすら舞踏会に明け暮れる連中を見せるだけで、台詞らしい台詞はほとんどない。よって画面に動きを持たせるために婦人たちに扇を振らせたかったのかなあと。
そうしたら、最後にすごいシーンを発見しました。

Leopard2.jpg
現代ならキャサリン・ゼタ・ジョーンズが演じそう

舞踏会は夜通し行われ(しかしずいぶんお年をめしたご婦人もいるのに、みなさんタフですなあ・・・)、明け方、サりーナ公爵が洗面台の鏡に映る自分をみて涙を流す名場面がありますね。その後カメラは公爵の後ろに回り、開いたドアの向こうにある無数の陶器の置物を写すのです。
これは、トイレです。。。。正確に言うと「尿瓶」、当時の便器ですね。
舞踏会ではドアというドアはほぼ開け放たれているので風の通りがどのくらいあるのか知りませんけど、少なくとも蝋燭の炎で照らされているわけですし、じっとしているだけで汗がにじむ夏の夜に、夜通し踊った後の便器をうつすとは。。そしてその部屋のドアも開けっぱなし。(これは演出だったのかもしれないけど)

私がその場にいたら、汗と排泄物とおそらく男女ともつけているであろう香水のにおいが入り混じった悪臭で卒倒すると思いますね。

つまり、徹底して醜悪なんですよ。舞踏会の初めにキャーキャー騒ぐ婦人たちをサリーナ公爵が「まるで猿」と言い放つ場面もあります。これが「貴族の終わり」なら、こんな人たちさっさといなくなってもらってかまいません。
それでもサリーナ公爵の高貴さで、貴族という支配者階級も人々からの尊敬も集める、存在する意義もあった。それが一切中途半端なままに(それは中庭でのパッラヴィチーニ大佐とのやりとりでも示される)革命がなされてしまった。貴族もそうでない人々も、階級は関係なく低俗で醜悪なんですよ。でも、匂い(=生命エネルギーの象徴)はむせかえるほど溢れている。
つまり、それに嫌悪を感じている公爵はもうその時点で「おまえはもう死んでいる」(すみません、基本的にボキャブラリーが漫画レベルで)なのですね。映画が唯一描けないのは匂いですが、もう十分想像しただけで吐き気のする場面でした。

この暑い時期の舞踏会というのは、脚本で設定されたのか、原作がそうなのかわかりませんが、「ヴィスコンティ秀作集3」によると、実際、撮影も8月、シチリアの太陽はアフリカと同じだから、それはもう大変だったと書いてあります。舞踏会の撮影は日中の暑さを避けるために夜の8時から朝の4時の間に(本当の舞踏会そのままに)行われた。しかも邸宅の明かりは蝋燭ですから、それをすべてつけるのに55分もかかったそうです。かなり明るかったですが、蝋燭だけであんなに明るくなるんですね。

撮影監督のジュゼッペ・ロトゥンノによると「一番撮りにくかった俳優は、ベンティゴですよ。あの黒い犬。あいつの黒くて長い毛はそこらじゅうを汚しまわるし、まったくペストみたいなやつでした。女優たちの長いスカートにいわれのない敵意をもっていて、突然踊りかかるのを防ぐためにいつも見張り役をおかねばならなかった」
えー、公爵によりそって終始すましてお屋敷を歩いてましたけどね。こういう裏話はやっぱり面白いですね。

Lepard5.jpg
ヴィスコンティ・・・撮影現場にこのおしゃれな格好。

『山猫』公式サイト http://www.crest-inter.co.jp/yamaneko/
【参考文献】
『人々のかたち』塩野七生著 新潮文庫
『山猫 ヴィスコンティ秀作集3』ルキノ・ヴィスコンティ・溝口 廸夫訳 新書館

2006年03月25日

ルキーノ・ヴィスコンティ著 『アンジェロの朝』

本日は『カテリーナ都会へ行く』を見逃して残念。イタリア映画祭で上映以来公開されてないし、また上映してくれないかなあ。
よりによって『山猫 完全版』と同じ日にさあ。重なるときは重なるんですよね。こちらについてはまた後日。

せっかくなのでヴィスコンティの小説『アンジェロの朝』について。


1930年から37年の間に思いつくままにノートに書いていた小説というより、お話の断片をまとめて出版したものである。

ヴィスコンティは自分がある時期文学に惹かれていて、小説を書き出したがすぐに放棄し、二度ととりあげなかったことを決して隠したりしなかった。しかし未完に終わった原稿を公にするのにはためらっていたそうだ。

話が完成してないので、読んでもよくわからなかったのが正直な感想。

30P以上に及ぶ解説と、ヴィスコンティ年譜に資料的価値があると思って読んでみました。ヴィスコンティ作品の登場人物と小説の人物の関係性についての考察で目にとまったのは、この小説は映画でいうと『郵便配達は2度ベルを鳴らす』の世界に一番近いこと。書いた年代もその時期なので当然といえば当然。

また、「いかにも映画的な描写は、視覚的なものはなにひとつ見逃さない映画監督の目の特徴である」という指摘。

そう、ストーリーはよくわからないのですが、緻密な描写はまるで映像を言葉で解説しているように思えるほどです。


・・・・・・・・
夜が最初の青い影を投げかけ、空が遠ざかりながら大きく広がって、家々の屋根の波の上方で蒸発して消えるかのように見える時刻になると、無数の運河や、(略)通りや小路から、教会の鐘の音の潮がたちのぼりはじめる。近くの聖ニコロ教会や聖フランチェスコ教会の鐘、修道会の小さな礼拝堂の鐘がまず最初に、砂の上を走る漣(さざなみ)のように、澄んだ、いかにも優美な音を響かせる。(略)遠くの大聖堂から、たっぷりとふるえる大きな響きが最後にやっと聞こえてくると、空には、大海原の水があふれて広がる
・・・・・・・・・

まあ、ひとことでいうと

「夜が明ける」

ってことなんです。(*^。^*)

鋭い観察眼がないと映画監督にはなれないということですよね。






2006年01月17日

ルートヴィヒ/神々の黄昏[完全復元版]LUDWIG

ルートヴィヒ/神々の黄昏[完全復元版]LUDWIG 1972・240分

あらすじ
1864年、18歳の若さでバイエルン国王となったルードヴィヒ2世の生涯をヴィスコンティが映画化した渾身の一作。
当初4時間30分のはずだったが、MGMとの契約上3時間4分までカットされ、更に劇場公開のために2時間10分や2時間23分など様々なバージョンが作られ、映画は原型をとどめないほどひどい状態になった。
完全版が出来上がったのは、ヴィスコンティの死後。本作の撮影にかかわったスタッフたちがフィルムを買い集めてこの完全復元版が出来上がった。

ludwig肖像画.jpg
実際の肖像画・ルードウィヒ2世は身長が190cm近くあったそうです。

解説
この映画についても今さら私があーだこーだいうことは何もないので、読んだ本とあわせてご紹介します。

私が読んだのは『皇妃エリザベートの生涯』という本です。

完全復元版にて復活したシーンにはエリザベートのシーンがいくつかあります。
当ブログ「お気に入りサイト」にリンクしているヴィスコンティのHPを参照ください。)

そう、日本でも宝塚や帝劇で大成功を収めたミュージカル『エリザベート』ですよ。
このミュージカル、ご本家オーストリアでは日本ほど人気ないそうです。
日本人はどうしてこれほどまでに『エリザベート』を好きなのか。

考えられる理由1)闇の帝王トートとエリザベートの「萌え」な関係が「萌え」好きな日本人の心をくすぐる

考えられる理由2)現代の日本にエリザベートと非常に良く似た境遇の方がいらっしゃるので、日本人はエリザベートの人生とわが国の誰かを重ね合わせてみている。
またもしかして、もしかすると血が絶えてしまう、王家が危ういという状況もなにか重なるものがありますねえ、不思議なことに。

私はミュージカルを楽しんでいる方で、まだ映画を未見の方には、ぜひこのヴィスコンティの名作を観ていただきたいですね。
なぜなら私、映画『ルードウィヒ』は学生時代から今まで4回は観てますが、エリザベートの舞台を観た後が、映画を一番楽しめました。

ルードウィヒ2世ばかり観ていた過去3回の鑑賞とは違い、エリザベート(シシィ)の目線で映画を楽しめるからです。
すると、細部にこれまたなるほどと思う箇所が多々ありました。
当時、欧州一美しいといわれたふたりの貴族、バイエルン王ルードウィヒ2世と、オーストリア・ハンガリー帝国皇后エリザベート。この2人が線でつながり、立体的に物語を楽しむことができた、というべきか。

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例えば、
ルードウィヒが自分を愛していると気がついているシシィは、その気持ちをかわそうと自分の妹をルードウィヒと婚約させようとする。(実際婚約まで行くが10ヶ月ほどで解消。)

乗馬が好きだったシシィが、ルードウィヒを「乗馬をしましょう」と誘うシーンもさりげない一言ですが、もともと子供の頃のお転婆なシシィが落馬をしたシーンから始まる舞台版を見ていると、乗馬好きな活発な彼女が、ちゃんと映画で描かれているとわかるわけです。

それから舞台では晩年のエリザベートが精神病院を慰問するシーンがありますが、これはハプスブルグ家から精神を病んでしまう人間が続出したからで、彼女もその影におびえていたと言われています。
映画でも、奇行が目立つルードウィヒだけでなく、彼の弟オットーも病んでしまう場面が描かれている。これらの不幸と大きな時代の変革の波が襲ってきて彼の母親がプロテスタントからカトリックに改宗する場面なども非常に興味深いですね。

そしてエリザベートのトレードマークであった腰まである長く美しい髪。
映画はカツラでしょうけど、妹がエリザベートに寝室で髪に櫛を通しながら「ルードウィヒは私を愛してくれないの」と相談する様子の美しいこと。

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またルードウィヒをたずね、リンダーホーフ城を観て回るシシィの姿勢のいい歩き方にもうっとりします。もちろん緑色の瞳にもねえ。
実際のエリザベートの肖像画は、ロミー・シュナイダーよりもっとふっくらと可憐な感じがしますが、さぞ美しかったことでしょう。
ロミー・シュナイダーは17歳のときにオーストリアのテレビドラマ「プリンセス・シシー」に出演、エリザベートの若いときを演じ人気を呼んだ過去があります。何度もエリザベートを演じていることからも、彼女がその面影を一番彷彿とさせる女優さんだったのでしょうね。

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ちなみに本作はもともと英語で撮影されており、日本ではイタリア語バージョンで公開されていますが、ルードウィヒはジャンカルロ・ジャンニーニによって吹き替えされています。
でもドイツ語で観てみたいです。オーストリアハプスブルグ家とバイエルン国王の話ですからね。

そんな風に『ルードウィヒ』を楽しむのもいいかと。

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せっかくなので、本にあったエリザベートのエピソードをいくつか。
1)エリザベートは政治には全く無関心なのにハンガリーになると目の色をかえた。1863年からはハンガリー語の習得に打ち込む。1866年、アンドラーシ伯爵ジュラと出会う。若いときは革命家で、のちにハンガリー首相を務める人だ。ふたりの間には”友情”が芽生え、以後それは恋愛の様相をおびながら一生続くことになる。エリザベートが寵愛した三女のマリーヴァレリーの父親が、ジュラだと噂されたことすらある。(あくまで噂)
2)1877年、ルスティモという黒人少年を、マリー・ヴァレリーの遊び相手にした。マリー・ヴァレリーが幼少期を過ぎた後も、エリザベートはルスティモも好遇し、宮廷口上官なみの給料がもらえる官房口上官に任命したという。当時、黒人は奴隷として売買されたいた時代だったので、いかに突拍子もないことをやる女性だったかということを示すエピソード。
3)ルードウィヒに嫁をという気持ちをエリザベートは持ち続け、妹のゾフィーが失敗した後も、自分の三女マリー・ヴァレリーすらルードウィヒと引き合わせようとした。(もちろんルードウィヒは嫌がったが)

(補足)エリザベートとルードウィヒ2世の関係について
バイエルン王マクシミリアン1世と初婚の妻ヴィルヘルミーネとの間に生まれたのがルードウィヒ1世。
ルードウィヒ1世の子供がマクシミリアン2席。その子供がルードウィヒ2世である。
マクシミリアン1世はカロリーネと再婚。彼女との間に生まれたのがゾフィーとルドヴィーカ。このゾフィーがカール大公と結婚し、生まれたのがフランツ・ヨーゼフ皇帝。
ルドヴィーカが生んだのがエリザベート。
エリザベートにも、ルードウィヒにもバイエルン王の血が流れている親戚同士です。
特に、エリザベートと結婚するフランツ・ヨーゼフは、母親の姉の子供ですから、本当に近い従兄弟でした。
ルードウィヒ2世はおじいさんのひ孫(エリザベートのほうが8年上)。
ここらあたりの血の濃さがハプスブルグ家の悲劇の憶測を色々呼ぶわけですけど。

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左から撮影中のヴィスコンティ、ロミー・シュナイダー、ヘルムート・バーガー

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監督: ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti
製作総指揮: ロバート・ゴードン・エドワーズ Robert Gordon Edwards
脚本: ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti、エンリコ・メディオーリ Enrico Medioli、スーゾ・チェッキ・ダミーコ Suso Cecchi d'Amico
撮影: アルマンド・ナンヌッツィ Armando Nannuzzi
音楽: フランコ・マンニーノ Franco Mannino
 
出演:ヘルムート・バーガー Helmut Berger ロミー・シュナイダー Romy Schneider
トレヴァー・ハワード Trevor Howard
シルヴァーナ・マンガーノ Silvana Mangano
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【参考本】
『皇妃エリザベートの生涯』マルタ・シャート 西川賢一訳 集英社文庫
『ルードヴィヒ』山猫書房 ドイツ・オーストリアロケ撮影日誌が掲載されています。貴重。
『ヴィスコンティ集成』フィルム・アート社 

【参考サイト】
http://www.vivaluchino.com/visconti/
(既にお気に入りブログとしてリンクしておりますが、一応ここでも。完全復元版でどのシーンが復元されているかについての詳細な記述があります)





2005年12月06日

ヴィスコンティは主演俳優に何をプレゼントしたか

せめて週2回は更新しなければいけないと、自分を叱咤激励。

私が好きな塩野七生さんのエッセイ『男たちへ』の中に、興味深いエピソードが。

タイトルは、「女には何を贈るか」であるが、よい贈り物とはなんぞや、という好例を示すために塩野さんが親しかったルキーノ・ヴィスコンティの話が出てくる。

−私は、ある時期のヴィスコンティの主演俳優たちが何を贈られたかをすべて知っている。そしてそれらがみな、直接に肌に触れる品であったことを、感嘆の想いなしに思い出すことができない。(中略)毛皮のコートのときなど、あのドイツの若い雄のような男は、必ずこれを裸身にまとって鏡に見入るだろうとさえ、確信したほどだ。−

そしてヴィスコンティの演技指導もまさにこのようなものであったと続く。
自分が主役に必要だと考えているカタチ、官能美というものを、それを頭に置きながら選んだ品を送ることによって、創り上げていったのではないだろうか、と。

で、女性に何を贈るべきかは、本を買って読んでください。もうすぐクリスマスだしね。





2005年11月23日

郵便配達は二度ベルを鳴らす その2

ヴィスコンティのオリジナルタイトルは『妄執』でして、女性が道ならぬ恋に溺れていく様を表わすタイトルになってます。
原作タイトルは『郵便配達は二度ベルを鳴らす』。こちらも非常に意味深な、想像力をかきたてるいいタイトルですね。
でも、映画に郵便配達人は出てこない。
なぜ、2度ベルを鳴らすのか?
一回鳴らしていない。そして2回・・・と、家に人がいないことをあらわしているのかもしれません。もしくは、なにかの合図。
家というのは人がいて、はじめて家になるものですから。
ジェームス・ケインの原作を読めば出てくるかな、未読なので読んでいる方がいたら教えてください。

一説によると、ですよ、悪魔は2回ノックすると言われているらしい。
つまり不吉な知らせを意味すると。

郵便配達ヴィスコンティ.jpg

さて、今回はタイトルの意味を書きたかったのではありません。
この映画の音楽の使い方の見事さについてです。

フェデリコ・フェリーニにはニーノ・ロータという無比の音楽パートナーがいました。
それに対してヴィスコンティは、クラシックを上手く使った人だったと思います。
特に、ヴィスコンティ家はミラノ・スカラ座に桟敷席を保有しており、子どもの頃から家族と一緒にオペラに慣れ親しんでいた。その旋律、ストーリーすべてが体に染み付いていたほどの人だった。そういう生活を経験した最後の世代、最後の貴族、そんな人だった。
ヴィスコンティが好きな作曲家は、ヴェルディとブルックナーだそうですが、後々の映画をみても、彼ほどオペラの演出とクラシック音楽を映画の演出に活かした人はいなかったと思います。

「郵便配達・・・」に、港町の酒場でオペラ大会が行われる場面があります。
ヴァレンティナの夫ジュゼッペ、ヴァレンティナ、ジーノの3人が酒場に入ると、舞台上ではすでにある女性が「カルメン」を歌っている。
急遽参加することになったジュゼッペは、なぜか「椿姫」を歌います。
この選曲の順番からして計算しつくしている。
ご存知のとおり、『カルメン』は魔性の女と、ホセとエスカリーリョの2人の男の三角関係の話です。つまり、これが映画の前半部分と重なります。
そして夫のジュゼッペが「椿姫(La Traviata)」を歌うことで、この不倫が悲劇に終わるという運命を、つまり後半の展開を暗示している。
ただし、カルメンのように男に殺されるのではなく、自滅する女性という運命です。だから「椿姫」でなくてはならなかった。
そして、旦那が「椿姫」を歌うその目前で、テーブルに向き合うヴァレンティナとジーノが愛を確かめ合う。
が、話に熱中して、ジーノの肘にワイングラスが当たり、グラスが床に落ちて粉々に割れる・・・。ガラスの割れる音が響きます。
この二人の恋が、粉々に砕け散る。後半の展開をそのままここで暗示しているのです。
この場面、この音が響く瞬間が、映画の前半と後半の分岐点になってます。

酒場のシーンは非常に重要な場面です。
3人が酒場に入ってくるところから、音楽の流れ、継ぎ目や盛り上がりに合わせて、そして歌詞に合わせて流れるように演出されている。

こういう演出をヴィスコンティは他の映画でも行っています。

是非この場面に注意して本作を堪能してください。

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酒場のセットに立つヴィスコンティ





2005年11月17日

『HARAKIRI』は『山猫』にカンヌのグランプリをもってかれた

本日(11月17日)付け日本経済新聞朝刊「私の履歴書」より

今月の履歴書を書いているのは日本の名優仲代達矢氏です。
1963年、カンヌ映画祭に出品された小林正樹監督作『HARAKIRI(切腹)』についてのエピソードが。

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前評判ではグランプリ間違いなし、受けるインタビューでも「もう、受賞は決まってるから」と言われ、すっかり受賞できると思っていたそう。
しかし、フタを開けてみるとヴィスコンティの『山猫』へ。(『HARAKIRI(切腹)』は審査員特別賞)

授賞式後に行った高級レストランで、ヴィスコンティ、アラン・ドロンなど関係者が集まりパーティーをしていた場に鉢合わせしたそうです。

ここから先は新聞をどうぞ。

2005年11月13日

郵便配達は二度ベルを鳴らす OSSESSIONE

郵便配達は二度ベルを鳴らす OSSESSIONE(妄執)1942

監督:ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti
原作:ジェームズ・M・ケイン James M. Cain
脚本:ルキノ・ヴィスコンティ Luchino Visconti、マリオ・アリカータ、ジュゼッペ・デ・サンティス Giuseppe De Santis 、ジャンニ・プッチーニ Gianni Puccini、アントニオ・ピエトランジェリ Antonio Pietrangeli
撮影:アルド・トンティ Aldo Tonti 、ドメニコ・スカラ
音楽:ジュゼッペ・デ・サンティス Giuseppe De Santis
出演:マッシモ・ジロッティ Massimo Girotti
クララ・カラマーイ Clara Calamai
フアン・デ・ランダ Juan de Landa
エリオ・マルクッツオ Elio Marcuzzo

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イタリア版DVD

ルキノ・ヴィスコンティ監督の初長編監督作。
デビュー作というのは、大変重要です。
残酷なことを言ってしまいますが、監督はほとんど1本目で決まってしまうと思います。
ジョージ・ルーカスやスピルバーグの初監督作を見れば、スタート地点が凡人と違うことは明白です。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』もしかり。これが、初監督作?
しかも、それまでジャン・ルノアールの助手(助監督ではなく、助手)をしただけのイタリア人の34歳の若者が最初に作った映画がこれですか・・・・。

本作については様々なHPでもう充分語られているので、そこに載っていないであろうことのみ付け加えます。

1回目の鑑賞は生活のために愛のない結婚をした若妻ジョヴァンナと、流れ者の若い男ジーノとの不倫の顛末の物語として観ればよいと思うのですが、2回めの鑑賞では、ぜひイスパに注意して観て欲しいと思います。
本作の一番重要な人物は、実はイスパなのです。

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左がジーノ、右がイスパ。目が妖しい(笑)

「もっとも興味深い要素はあの流れ者だったし、いまもそれにはかわりはない。これはそっくり私の手になるものだ。この人物を通して、私の作品の基本的なテーマを表現したかった。
つまり社会的問題と旅のふたつだ。この作品はファシスト政権下で撮影されたが、その時代
この人物は、革命と思想という自由のシンボルそのものだった。」−ヴィスコンティ

イスパは、ジーノがジョヴァンナの元から姿を消して逃げた時に、彼を助ける男として登場する。
このイスパという名前はそのままイスパニョール=スペインからとっている。

ヴィスコンティが彼が革命と思想の自由のシンボルそのものと語るのは、この名前がスペイン戦争(1936-39)を表わすものだからだ。
映画を製作したのが1942年で時代も重なる。
その当時のイタリアはムッソリーニファシズム政権下で、レジスタンス活動をしていた熱心なコミュニスト・ヴィスコンティとも重なるのだ。

スペインの大地主、教会側のファシズム勢力と共産党、社会党、共和党側の人民戦線との戦いは、ヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』の題材ともなり、ピカソの『ゲルニカ』がこの戦いから生まれた傑作として有名だ。

流れ者のイスパは、おそらくコミュニストとして人民側について戦った男なのだろう。
放浪しているのは、スペインから命からがら逃げてきていたからかもしれない。
イスパは無一文のジーノを助けたが、彼が自分を裏切ると仕返しのように警察に彼を差し出す。

ジーノとイスパの関係には同性愛がほのめかしてあるらしい。ジーノがイスパからまたジョヴァンナ(女)の元へ戻るという、一人の男をめぐる三角関係のもつれという要素も盛り込まれているのが興味深い。

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そしてジーノがイスパに出会うという場面は
ヴィスコンティが初めてイタリアからパリに来てコミュニストたちと出会ったころの経験が反映されている。

(ヴィスコンティがなぜパリに行ったか、という点についてはお気に入りリンクのヴィスコンティサイトを参照ください)

「私は今まで想像すらしなかった環境とはじめてめぐりあった。イタリアではみな目隠しをして、耳をふさいで生きているという印象を受けたものだ。私は、フランス共産党の若者たちと接した。(中略)はじめは警戒された。なぜなら私は、イタリア人でファシストの国からやってきた男で、しかも貴族という重荷を背負っていきていたからだ。しかしやがて強い絆で結ばれ友人となったのだった。」−ヴィスコンティ1964

「強い絆で友人となった」というコメントは、ヴィスコンティという人の性的趣向を考えると、いろいろ解釈可能ではないでしょうか・・・。

ジーノ(イタリア人)がイスパ(=自由)に出会うという構図に話を置き換えてみると、より物語の理解に深みが加わると思います。


参考文献:ヴィスコンティ集成 フィルムアート社



実はあと1点、この映画の演出について書いておきたいことがあるのですが、また次回。


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